カルチャーと健康

98歳ミチおばあちゃんのエッセイ

宿帖

 夫は無口で真面目、来客は大歓迎だけれど、お茶を入れたり、酒の用意などは全く不得手だ。
 よくしたもので、そちらの不得手は私の得意とするところで、子供も四人もいたのにお客で大変と思ったことは全然ない。夫も私も一人ッ子育ちで互ににぎやかさを願っていたのか、今は騒々しい家になっていたのにそれにひるまずお客はよく集まってくれた。
 夕食後、やっと台所を片づけた夜八時ころ、生きのいい大魚をぶら下げてきて刺身が食べたいと客がくる。ヤレヤレと思いながらも、私はそれを三枚におろす。中骨にはでこぼこに身が残ることもあるし、剥いだ皮にびっくりするほど魚肉が残ることもある。丁寧にしていたら夜も更けてしまうから包丁のすべるまま何事も手早くやるくせがついた。

 どっと連日のように客がおしよせたのは、当時インターン生と呼ばれた医師予備軍であったと思う。
 六年の医学部を卒業すると、以前はすぐ一人間として世に出るのに、アメリカ、マッカーサーの指令によってその年からインターン、と称して一年間、各科を廻って先輩に放えられ実習する制度になった。無給で研習し明くる年の春、国家試験を受け合格した人だけが一人前となるのだった。小学校から延々ぶっ通し十八年もひたすら勉強して、運のわるい人は何度も国家試験に落ちて、しまいに受験放きした人も出来たという。
 身分の不安定な彼等は若いエネルギーのはけ口がなくて、夜になるとわが家にやってくる、その前に、やき鳥で一杯やってくる人もいれば、病院給食を二人分も食べてからまだ何かが満たされないでふらりと現われたりする。
 夫は日本酒党で洋酒は飲まないが、若者は、焼ちゅう、ウイスキー何でもよしで、こっそり消毒用のアルコールを何とやらと、こそこそ話しているのも聞いた。
 中核都市の市立病院だから大それたことはできないが、「飲ん兵衛先生」と知ってか何時も私のとこに、ウイスキーが山とある。
 彼等の目をつけたのはそれだったろうが、来て見れば、まだ幼い子達と何やら気さくで料理の出しっぷりのいい奥さんがいる、皆、自分の家に帰ったような気になって夫と、「侃々諤々」何時迄たっても終りになりそうもないおしゃべりが続いている。
 バッタとあだ名をつけられていた若者は出す料理を端から全部食べてしまい、たった今、漬けたばかりの菜っぱの新漬を出してもあちこちから箸がでてあっと云うまに丼が空になる。
「そんなにおいしいの?」
ときくと、まずい、まずい、ひどい味だという。
「それなら食べなければいいんですよ」
というと、
「何も食べるものがないからねえ」
と憎らしいことを平気で言っている。
 何とか喜ばせようと思って農家の人に教えて貰って、大きい「かめ」にどぶろくを仕込んだ。
翌朝蓋をとってみるとすごいことに、まるで生きもののようなぷつぷつという音を立てて米こうじが発酵し、おいしそうにあわ立って私は小指をつきさしてちょっとなめてみた。
 何とまずいこと。これがどぶろくというものか。それでも酒なのだから彼等にお腹いっぱい飲ませてやりたいと思った。夫が知らせたのか、六人のバッタがおっとり刀でやてきた。
「今日はいくら飲んでもいいのよ、大がめ一杯ありますよ」
塩辛もするめも放出した。一口も飲めないすぐ猿のように真赤になる江田君も、ジョッキになみなみついで、うまそうな色をしている、といった。
「げっ!うまくない、すっぱいすっぱい、」何だこれ。
 皆顔をしかめて口を離した。酸っぱいはずはないんだが、と思ったが時が過ぎたのか、暖めすぎか勝手がわからずさすがの猛暑もへきえきしたが残されれば私が始末に困る。帰るまでに全部けりをつけて貰った。

 冬になった。ストーブの季節になり、彼等の本領を発揮する時季まで何か月もない。それでも夜毎どこかででっかい声で唄を歌い、あちこちで武勇伝を見せてまたやってくる。夫は若者の新しい息吹をきくのを楽しんでまた明日もこいよ、と声をかける。
 約束通り彼等はやってくると、勝手にストーブに石炭をくべ雑談を始める。夫は終始嬉しそうだったが疲れると、「わたしは宮仕えだからな、先に寝るぞ。君たちはあきるまで話して行け」
と、さっと寝室に引っこんでしまう。私も料理の材料もつき思案しているうち流台のふちをつかんで、うつらうつらとねむってしまったこともある。
 余り楽しそうに話が弾んでいるので、
「私も先に寝ます、帰るときは戸じまり火の用心をしっかりね」
と退散する。
 夜明け、ふと何かの音に目をさまし、のぞくと居間で、一人は腕まくらでねむり、他はまだおしゃべりの最中だ。
ちょっと顔を出すと、
「奥さん、このストーブ燃えないから、夜中に皆で煙突そうじをしたし、皿も洗ったからね」
と意気軒高としている。
 ストーブは勢いよく燃えているし、夜が明けてみれば家の前は、風に吹かれて真黒な煤が一面とんでいる。
 正月が近づいた、何かおいしいものを食べさせたいと考えたのがラーメン、お湯に入れれば煮えるのだから、 
 重層でもいい。とっておきの麦粉を全部出して食用油と練り交ぜ何とかあめ色がかった「めん」が出来た。とりがらのスープだけは唯一私の自慢品、夫と二人でちょっと味見する、上出来、上出来とほめられて、子供たちに一杯づつ食べさせたら、バッタ君たちの分は大盛り一杯分ぐらいづつしかない。
「ラーメンなんてなつかしいなァ、どうやって作ったの」と皆がきく。
 おいしい香りが漂う。皆少年のような顔でふうふう食べ乍ら、
「お替りある?」
と誰かがきいた。
「ないの、ないの、それ一杯きり。麦粉さえあれば何とかなるけどこの次ねごめんね」
 夫も私もスープの味見だけで一口も食べていないとは口先まで出たけれどやめた。

 正月二日、すごい晴天、かんと青い空には雲ひとつない。北海道には珍らしいさわやかな新年だった。夫は年始回りに出かけた。ふと遠くを見ると、見なれた黒いマントやセーターの集団がこちらをめがけて走ってくるのが見えた。
 暮の三十日までぐずぐずしていたのにまた来たのか、いささか私も参ったと立竦んでいると玄関があき、一番怪物の伊藤君が、直立不動で黒いマントの中から何か大きいものをさし出した。
 それはそれは大きな真白な鏡餅だ。
「お供え?」
私は絶句すると、
「そうです、そうです、僕らいつも先生ご夫妻にお世話になっていますので、心ばかりのお礼の餅を持ってきました。今年一年これと同じ丸るく平和でいい年をお迎え下さい。おわかりのように、このでかい鏡餅は市立病院玄関、正面に飾ってあった供餅(そなえ)ですが、病院には分らないように二段重ねの下の段、大きいやつを持ってきました。残りの餅の上に橙橙をのっけて元通りにして来たからわかりません、どうぞご遠慮なく召上って下さい」
 頭を下げて又元の道を駆けて行った。
 病院の方からも何のおとがめもない、
 市立病院ともあろうものが、毎日山のように訪れる病人の奇異な目にさらされている、台座にのった一枚きりのお供えの犯人の目ぼしは付いていたろうが、太っ腹の院長の才覚で、知らぬ顔の半兵紅で終ったようだ。
 彼等はいつから本格的な勉強開始になるのか、私は気をもむが夫は笑って、
「やっているんだよ、頭のいい連中だ。うまく息抜きしているだけさ」という。
 正月の松も取れた夜、相変らず、食べるのか議論かわからない喧騒の中で代表格の松尾君が、明日学芸会をして見せるという。シーツを二、三枚頼むと言っていた。

 翌日、いつも大音じようを張り上げている我家の居間に彼等が、どこで調達したのか古い、ちびた柳行李を持ってきた。
 三枚のシーツにひもが下って幕になっている。夫は見ないうちからうしろを向いて笑っている。市立病院のクリスマスでもこの連中は女装をしたりラインダンスをしたりものすごい芸達者なそうだ。
 松尾君の獨唱が最初。但、これは調子はずれ聞かれるものでない、
 次は綱渡り、床にまるで綱が引いてあるような、また空中を遊泳するが如きの見事さでハラハラさせ、時には、から傘をかざして見せたりする。
 最後は、貫一、お宮の出てくる大芝居。木村君が古ぼけた柳行李にのせられて体のでかい二人にあとさきを曳きづられて舞台に出てきて大芝居をするのである。
 ひげづらに私の着物を着て、大真面目でセリフを黄色い声でいい、子供たちも呆然と見ている。
 しまいのサービスに、六人の背丈の不揃いな歩調の合わないラインダンスもしてくれて、レコードをかけると、いつまでも足をけって踊ってくれた。
 翌日から突然バッタはぴたりと行動をやめ、露地からも姿が消えた。
「始まったな」満を持して受験勉強に突入した彼等の音沙汰は全くない。始めてのテストケースとして行われる国家試験とはどんなものであろうか、あれだけ騒ぎ回り、院長も頭をかかえて閉口し、“お前たち、早く帰れ”とおどされていたのに元気印の若者達は、天に昇ったか地にもぐったかぴたりと静かな日々になった。
 全員合格、その知らせに、わが家の酒蔵は空っぽ、めぼしい食物もなかったけれど、一同で闇鍋という彼等直伝の得体の知れない汁を作って祝福した。
 爆発をしたかのように彼等は天下晴れてのインターン卒業生として飛んで帰り、第二陣はすぐその後に待ちかまえていた。

 ますます医療については目ざましい発展もある今日(こんにち)だけれど反面、むづかしいことも増してきて、かって我家にたむろした連中の活躍が目立ってきた。往時のくるりと刈った髪は消えて、白髪、総退却、光頭、に顔型も変ったけれど、たまに会えば昔のまんま。
「奥さん、年とったねえ、百才ぐらいになった?」
「あなた、何を馬鹿なことを言うの、インターン生で来たとき、うちの人は五つか六つあなたより年長だっただけですよ、だから私はもっと、ぐーんと若い」
「そうかなァ。先生は仰ぎみるようにえらい先輩に思えて、研究も同じ道に進んじゃったんだけど、そんなに年も違わなかったんだろうか。でも第一、先生は、はげていたからね」「あれは長い軍隊生活で、軍帽のかぶりっ放し、むれたんですよ」

 目の前を過ぎて行った老幼男女、ちっぽけな家でも、心易く遊んで行ってくれた人たちの名前をしるす宿帖はもうぎっしりだ。
 丸顔の童顔で笑顔いっぱいの旗君が若くして自殺した。全く理由は分らない、聞く方法、呼び止める方法はなかったんだろうか。好きで一緒になったのに別離の人もいるし、人生さまざま。
 でも宿帖にのっているころの皆は全く若いよ。私のまぶたににはその姿しか残っていない。あの世でもこの世でものびのびとやっていてほしい、宿帖はまだ一枚目、不思議とふと一夜の宿をしただけの人でも筆跡で、“あ、あの人”と思い出し私の頭や胸の中で踊りだす。妙に人恋しい、少し皆と話をしてみようか、と思う。

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