カルチャーと健康

98歳ミチおばあちゃんのエッセイ

心の中の国家とは-その2-

(馬を曳く。)

「うっ!」
 突然脳天に突き刺さる激痛が去り私は片足をあげた。夫が苫小牧近くに駐屯することになり、今は当番兵の手伝いもなくなった留守宅の私が、僅かの間、腰かけるように住んだ官舎に、又もや別れを告げて三度目の官舎に移った日の朝だった。
 身回り品だけ札幌の家から持ってきたつもり、だが僅かづつふえて女一人の手での引越はむづかしそうだったが、何でもやる気になる私は誰も頼まずてっとり早く事を進めた。第一、頼もうにも見馴れた人々は全部移動して誰一人顔を知らないし自分でやるより仕方ないのだった。
 建てつけもゆるんでいるのか僅かの風でも玄関のガラスは大げさに鳴るし、たがのゆるんでいる戸の桟は水ぶきをするだけで泥水になった。
 あわてて玄関を上るとき何かの古材につっかかって太い釘をふんだ。
 薄黒く汚れた古足袋はみるみる真赤になった。あわててぬぐと足の裏が血だらけだ。とっさに手拭で足首をきつくしばったが血は止らないし、薬もどの辺にしまったか見当もつかなかった。
 血の流れるあたりを押しているうちに気分がわるくなった。と、その時乱暴に玄関が開き
「奥さん一体どうしたんですか!」
と思いがけなく、裏の官舎の曹長どのが飛込んだのだった。移動先から公用で原隊に戻って来たついでに、皆に頼まれ留守宅の安否をたずねて回っていてこの有様を見つけて仰天、医務室に走り薬品箱を抱え一切の処置を手早くしてくれた。
 古釘は抜けたし案じた血も止った。薬も充分に置いていってくれたが、夫には知らせなかったらしい。私も黙っていた。
 台所を歩けば、どの板もぎしぎしと鳴り、ポンプを上、下して水をあげさげすると最初は必らず赤黒い水が気持悪い程出た。
 風呂場をのぞくと、古い簀の子が敷いてあり、真ん中に鉄釜が据えてある、芝居でみる五右衛門風呂だ。
 吊鐘を逆さにしたような釜の風呂に入るのは恐ろしかったが、がまんが出来ない、どこかで見たような気のする仕方で釜の下に僅かの火をもやしてみた。
 釜の中に水を張ったのがすぐ沸いたが、鉄が熱くて火傷をしそうで恐ろしくて入れない、そばに立てかけてあった板を湯に浮かべて足をのせた。
一寸間違えば足をすべらせ全身火傷だ、平衡感覚を失い大声をあげた。
 やっと体を沈めると、さながら釜ゆでにされているようで気持のよいものでない。
 何というどこからどこまで古くてきたない家だろう。本当に明治時代の建築かも知れない。この一角の棟は軍人官舎の一番古いもので最後の砦と目されていた建物だと聞かされた。

 打ちのめされたように沈んだ気分で時々外へ出る。師団前から電車にのって旭川市内に伺うと、旭橋が見え、民間の人達が住む市街地のにおいがした。
 何時もならそのあたりから空気が変るのだったがやっぱり暖かくぬくぬくとした師団官舎からくるとびっくりする程空気の変って来たのがわかった。店の商品の数はへっていたし人影もまばら、街のあちこちに、東京の歌舞伎役者や、旅興行をつづけている水谷八重子一座の赤いのぼりが年の幕の風に吹かれて力なくさむざむと泳いでいるのだった。

 庭に只一本つっ立っている古木の落葉が、厚い層になっていて踏みつけると、ずぶずぶと土の中にめり込んでゆく。
 来年も又ここで暮すならばやたら葉っぱを茂らす日蔭になるこの樹は邪魔だ、切り倒して薪にしよう、しばらく思案したが、決心して、裏の曹長の留守宅から大鋸を借りてきて何十年か何百年かの古木の幹に歯を当てた。しかし見よう見真似が大変だった。鋸はペカペカと乾いている表皮をなでるようにきずをつけるだけで、くねくねと波うつばかりで前後に動かない。力が余って自分がひっくり返えった。
 かなり力を入れたが初日は横一筋の線をつけただけ。汗をしたたらせ乍ら見上げると、老いたりといえども土着の木、こわっぱ何をすると見下ろす姿である。
 鋸は、馬鹿力を出したって駄目なのであって、巾広いこの鉄板を上手にいなしてそろりと遠くへ送り、いっきに力をこめて手前に引くのだ、すうっ、がっ!とやりとりしているうちに巾広い鋸は僅かづつ樹の肌にくい込んでゆく。二日も三日も頭の中で考え工夫して私は尚も武者ぶりついた。
 十日ほどでやっと一ミリの白いすじがついた。この大木が倒れたら一体何本の薪になるであろう。板ぶきの朽ちかけた体全体が斜めになっている物置がある。それにギッシリ切目のあざやかな丸々とした薪がうず高く積まれる日がいつ来るか、私の頭にはそれ以外考える余裕はない。
「奥さん、奥さん、この寒い中で毎日何をしていますの?」
 まばらな垣根のすき間から例の曹長の奥さんが丸い目をしてのぞき、不気味そうに声をかけた。
薪にですよ、と答えると、
「まあ!そんな大きな木、どうして倒せるものですか。第一、倒しても生木は燃えないんです。この寒空に風邪でもひいたらどうします、およしなさいよ」
 薪にならない?私はそれを聞いて絶望した。粒粒辛苦、二十糎近く食い込んだというのにまだまだ幹は太い、やり場のない何とはなしの不平と不満を抱いだのだったが、その日でその作業はやめた。
 雪がどっと降りだし気が付けば、正月にひと月しかないのだった。

 正月には夫に五日間の休暇がでるという。このぼろ家に帰ってきて来年は又、どこへ連れて行かれるか分らない彼に、何とかして好物の餅のつきたてを食べさせたいと思うし、好きな酒も僅かづつの配給を台所の隅にかくした。
 計画をたてたがる私だが、餅米はあるけれど、臼も杆もない。それさえあれば私だって搗けるだろう。と気づいて顔馴染みの官舎専門の魚屋にきいてみると、ある、あると承知してくれた。
「だけんど奥さん何で臼を運ぶ?」
と魚屋が私に訊いた、すかさず威勢のいいおかみさんが
「とうさん、××さんとこの馬を借りてあげなよ」
と奥から声がかかり、おやじさんは呼応して
「んだ、んだ、あれはロバみたいに優しい馬っこだもんな」
と頷いた。臼を借りる農家は近くだという、話は具体化して今度は私のほうがひるみ、札幌の母に応援を頼んだ。

 運よく夜来の大雪が晴れて山々は白く空は青い。借りに行くには好都合だ。私は重装備をして勇躍家を出た。
 魚屋の店さきに品のない小馬がそりを曳きづって止っている。
 おやじさんが出てきて手綱を私ににぎらせ
「右に曲る時は右に綱を引く、左に行く時は左へひく、走る時は両方の綱を平行にぐんと引くんだからね」
と、せっかちに私に教える、私は急に不安になって、「小父さんも一緒に行ってくれるんでないの?そのつもりで来たのに」
「んだって俺にゃ店があるもの、馬によっちゃ、人を見るって言うけど、これはまことにおとなしい、ロバコと同じだ。今教えた通りにやれば、何でもねぇ、馬鹿でも行くさね」
 おやじさんは、私のもんぺのお尻をどっこいしょと押し上げて馬にのせてくれた。
 おそるおそるひく、ひくと綱を引っぱってみた。小馬はぽかんぽかんとひづめを鳴らして一寸前進した。
「そうだ、そうだ、それでいいんだ、その調子で行け」
 おやじさんの拍手に送られて私は、小馬の首についている綱をしっかり握って恐るおそる歩き出した。馬は正直にぱこぱこ進み始め、ふりむいてみると、魚やはもう店に入ってしまって姿がなかった。
 馬も私も黙ったまま小半町もゆく。うしろで子供たちの声がし、ふとふり向けば何でもない喧嘩だ。また正面に向き直すと、馬がきちんと直角に右に向きを変えている、あ、ふり向いたとき右手の手綱を引いたのか、あわてて左をぐいと引いたら今度は小馬がくるりと左へ向きを変えて反対側をみて立っている。またもあわてて両手で水平に綱を引くと、今度は左に曲ったままの道を歩き始めた。これでは逆の道だ、また右にひくと馬は又ぐるりと半径分回って完全に右を向き私の手綱の通り右曲りしたままひたすらまっすぐ歩く。
 目的の家は魚屋から一本道をゆき、僅か右方に曲ればいいものを、私が子供の声にふとふり向いた僅かの手綱の狂いのために、農道を、小路を雪の中を只前進するばかり、私はうかつにもバックの手法をきいてこなかったのだ。
 背を叩いたり、撫でたり、綱を引っぱってみたり、ゆるめてみたり、その度に小馬は跳びはね、走り、止り、私はするすべもなくなって黙々と綱を握ったまま小馬のゆくまま、歩いて行った。
 どこかで馬から降りようと思ったが、馬をつなぐ場所もない。
 どこへ行くのか私も馬もわからず一本の小道を進むばかりだ。からりと晴れた青空も段々消えさり、暮れなずむ冬の日はもう僅か、肌をさすように体も冷えてきた。
はるかかなたに点々と灯のともりはじめた農家に尋ねたいと思ったが手を離したすきに逃げられるかも知れず、年の暮れだというのに何という人の影も少ないのだろう。
 やがてはるかにほっかぶりの小父さんが歩いてくるのが見えた。
「小父さーん」
叫ぶと、その人は手ぬぐいの脇から耳を出して、俺けェ?と云った。
わけを話し地図を見せると、
「全く反対だべさ、なんだってこんなところまで。いやはや驚いたな」
と私の顔を見て、俺、街まで行くだけど、その臼、借りてやっからあんたそりに乗んなさい、と手綱をにぎってくれた。
 遠くの農家の灯にと背を向け、小馬はくるりと向きを変え、何事もなかったように鼻から白い息を吐いて走った。小父さんは、
「将校の奥さんが、どすてこんなはんかくさいことすんの」
と、ほっかぶりの中から大きい声で言った。
 明日の命もわからないからね、私の搗いた餅を食べさせたいの、私はそれを思っていたけれど黙っていた。
 臼、きね、蒸器、そばで見るとみんな大きい、私一人ではしょせん無理な事だった。二人の農家の小父さんはころころ臼を回してそれにのせ、私をまん中の僅かのすきに座らせると、どんどん走り始めた。
 古家に着いて、玄関の土間に臼をすえ道具を置くとその小父さんは馬を返してきて上げる、と外へ出た。
 旭川に住む農家のおやじさんの心の中にも軍都旭川の誇りと出征兵士の家族を助けるという心がしがみついている、と私は目をしばかせ乍ら頭を下げ感謝した。
 長かった一日、ごめんね、私は小馬の背を撫でて詫びたが、相手はヒンとも言わず去って行った。
 正月まであと三日、夫は今夜おそく帰ってくる。

 明日は朝早く私が玄関の中で餅をつく予定だ。きねを振り上げ札幌の母が手こねというのをしてくれる約束だ。

(遠い寒月)

 私は、札幌へ帰るための引越支度をしていた。目も眩しむばかりの激しい暑さと、昼間から台所のポンプが凍り、朝目ざめれば枕元のコップの水が氷柱のようにふくれているほどの寒さを一年間のうちに経験した私は、主の去った今、再び共にこの家に住むことはないであろうと思い、部隊最古の明治建造木造瓦ぶきの官舎を早々と引き上げる準備を始めた。
 大鋸で切り傷をつけた庭の大木も、わずか二十糎程食込んだだけで放ってしまったが十二月末の豪雪にやられて、隣の空地にひっくり返えったが、もう薪はいらないし、僅かの畠の陽当りを心配する必要もない。
 ひからびて皮がむけ、巨像のような姿でだらしなく雪にへばりついた古木は哀れな姿であったが、ここを一刻も早く去りたい私には何の未練もなかった。
 
 ある日、苫小牧近くの遠浅という地に駐屯している夫から、買ったり貰ったりしたものが色々あるので来てほしいと知らせがあり、くわしい所在地もわからなかったが、飛んで行くと、すでに二区五条の顔見知りの軍人の奥さんがかなり集まっている。皆、知らせを受けて駆けつけた人達であった。
 一別以来、こんなに明るい顔を皆で会わせたのは始めて、満面笑を浮べた夫たちは、新巻、バター、小豆、留守家族の者達には、縁遠くなっている品々を次から次へと出して来て渡してくれた。
 この地はチーズ類の生産地だという。
 雪の殆どないこの地は旭川とは別天地のようであり、夫の宿泊していた宿の人々は親切な一家で、私が着くなり、むろから、芋、大根をずっしり出して味噌汁を作り、体が暖まるから、どんどん食べて大きな碗に山盛に出してくれた。
 勿論、この部隊が近々移動するための家族面会見とは夢にも知らず、私は家に待つ娘に食べさせたくて餅も、チョコレートも何粒かの飴玉も残さずつめ込んだ大荷物を背負って駅へ向かった。
 最後にまだ持てると宿の小母さんからの二本の大鮭がとどめをさして、私はそこでにっちもさっちもゆかなくなった。
 夫は隊に戻らねばならず、替って見送ってくれた兵隊さんが、私を荷物ごとうしろから列車の中へ押し上げてくれたが、余りの重荷と、長い魚が、ぶらぶらまつわりついて体がままならない。
 その時、列車の中にいた別の兵隊さんが、体が中ぶらりんになっている私を見兼ねて、よいしょと中から腕をひっぱり上げてくれた。
 旭川駅に着くと、午後十一時十分。はるかかなたに赤ランプをともした終電車が早く、早くというように、チンチンベルを鳴らしている。私は恥も外聞もなく片手で荷の紐をおさえ、片手を高々と振り上げ
「待ってぇー」と叫び荷を曳ずり命からがら駆けつけたが、電車の段にのぼれない。
 雪ですべり、段に手はつくが体がふっと浮いてくれないのだ。
 背の風呂敷は余りに重くはね上がろうとしても動かない、万策盡きて一尾づつ手にした鮭を電車の床に放り込み、重い荷が右に左に傾いてつぶされかけたその上に、ぐったり這い上った。
 車掌はおくれにおくれて腹がたったのか、私の足が電車に上るか上らないうちに音高くドアを閉じかけ、私は必死に荷にしがみついた。
 立ち上って自分の姿を見れば泥棒の逃げる姿でもありものすごい風体であったが、官舎通りの停留所で降されると私は雪の中に座り込み、のけぞるように気を失いかけた。
 一月二十日の寒月は空に冷たく冴えて雲もなにも見えない。寒さと空腹と……。
 駅のラジオは今冬一番の寒さ、旭川は零下二十三度といっていた。
 娘の喜ぶであろうキャラメルとチョコレートをかじかむ両手にぶらさげ、着物に結んでいる帯をほどいてその先に鮭をくくってひきづった。
 背中には大風呂敷にぎっしりと豆類、かんづめ、バター類があり、両腰のひもに鮭二尾がぶら下っている。
 やっと振むいてみれば、はるかかなたの帯の先に鮭がもう一尾、ひきづられて凍てつく道の上をころがっているのである。
 十歩あるいては白い息を吐き、五歩あるいては苦しい胸を叩いて凍りそうなマツゲをしばたたいた。
 もう歩けない、私は幾度か立止り、遂に重い雪下駄を捨てた。
 冷たいことなど全く感じない、私は色足袋のまま一歩一歩と我家を目ざし、ついに建てつけのわるい玄関にたどりついた。
 中には留守番に来た老母に抱かれて娘が待っているはずだ。最後の力で私はガラス戸をどんどん叩き、くずれるように荷物の中に埋まった。

 幸せがあれば苦もある。体全体氷像のようになって帰って一週間あと、夫から連絡あり×日某地に出発するのですぐ来るように、とのことで宿である例の雑貨屋さんに駆けつけたが、部隊は明朝発つので最早面会はできないという。
「鹿児島あたりという噂ですよ」
と、小母さんは言い、そこから船に乗るんでしょうかね、と憂い顔でつけ加えた。
 翌朝未明、まんじりともせずにいた私に小母さんが、今、出発らしいですよ早く、早くと告げにきた。
 店のカーテンを僅か開けて外を覗くと、姿、形は定かでないが軍靴の正確な響きだけが時を刻むかのように近づいてくる。
 店の前通りを、おびただしい数の兵隊が通り過ぎてゆくけはいがわかった。
 顔も見えず声もなく規則正しい足音だけだった。駅迄でも見送りたかったが許される事でない。真夜中、皆の寝静まるのを計って軍隊全部出て行くのである。
 カーテンのすきから、馬に乗ってる部長の、かっ、かっ、という蹄の音と、長く続く兵隊の規則正しい軍靴の音がいつまでも心に残った。

 昭和二十年二月、戦は何時終るとも知れず、暗たんたる想いであの夜の凍てつく寒さとを重ね合わせ、しみじみと、旭川二区五条の日を想うのであった。

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