カルチャーと健康

98歳ミチおばあちゃんのエッセイ

とんでくる夢

 私は、夢女と家族から笑われるほど本当に三百六十五夜、夢なしデーは数日に過ぎない。嬉しい夢あり、悲しい日があり、正夢あり日々多忙なのだ。そして今朝、母と私が素敵な鉢に苺を入れて両方でどんどん食べ、もう一人女の子がいて手を出そうとしているが、私共の口へ運ぶスピードにはかなわなくて、手を出したり引っこめたりしている。僅か残ったのを私が“大きい粒ね”と手を出そうとするあたりで目がハッキリしてきた。私は寝床のベットの中から太い腕をむんずと出して長く伸ばし今にも転げておちる格好になっていた。
 夢は段々現実化してくるなぁと近ごろ思う。無意識の中で目ざめてこれをやったら痴呆だ。寝ていてよかったと冷汗ものだったが、その夢の母は若くて元気でよく笑った。
不覚にも私は涙っぽくなってとび起きた。
 母は三十三歳で未亡人になって、四人の兄と弟を結核で失くし私一人を頼りにした。叔母の話によると、九州生れで横浜育ちの父はおしゃれで男のくせに時折、コロンの香りを漂わせていたという。母は全く無鈍着、着物も終生数える程しか持たなかった。私は少女時代になって少しおしゃれをしたがると、勉強をすっかりおえたら着物はどんなのでも作ってあげる。それまでは心を磨きなさいと口ぐせに言うので閉口したものだった。
 学校を卒業する近く、友達がソッと口紅を塗っているところを見た私は、何んて綺麗になるものだろうと驚いて“私にもちょっとつけて”とつけて貰い帰宅したら、叱られて、また例の説教をされた。
「だって私は色が黒いしチビだし恥かしいよ」というと
「これから綺麗になってゆく年なんだよ、母さんなんて一度だって、自分の顔の事など親に不平を言ったことはないんだよ」と言われて今更ら乍ら母の顔をみると本当に、眉毛が薄く、目もうんと下り鼻も高くない、ひどくふとっているし、いくら何でも私の方がいいかも知れないと、顔のくどきはしないことにした。
 久し振り、母が昼のうちに銭湯に行こうね、という。朝から暑い夏の日で家庭の小さい風呂はいやだった。幸いにまだ人はそんなにいない。ゆらゆらと湯気のたつ大風呂に入ると泳ぎたい程陽気になった。ふと母の方をみると、上気して顔もぽっと明るいし桃のようなおっぱいがゆらゆら浮いて豆みたいな乳首がぽっちりと漂っている。少女のくせに私は、可愛いいねぇとじっと見たら、「馬鹿だねぇ」と叱られた。あの時初めて、母も昔は女性だったんだ、と何となく思った時だと思う。今朝見た母の声はその時のように明かるかった。死者は声を出さないと言うけれどそんなことはない。次第に私も陽気になってきた。

 夢見る夢子の前、現実の私は、夫を戦地に送り、又母の家に戻ってきて、幼ない娘と二人で彼が無事還れるまで待つことにした。ひどい大雪の夜、大きい銭湯でゆっくり暖まろうと家族で出かけ、髪も洗って来た母が、夕食後少し寒けがする。お風呂がぬるかったろうかと一人言を言っていたが次の日朝早く、
「早いけど一寸起きてくれない?熱があるようだし、頭が痛くて痛くて」とつらそうな声で私をゆすった。見れば驚いたことに顔がまんまるくふくれて人相が変っていた。
 風邪だ、と思い解熱剤を飲んだが下らない。アッと見ている中に顔はまだぶくぶく腫れ、目は一本の線になり、口はへこんできた。髪の生えぎわがポンとふくれてあやしい。このままではいられないとあわてた。家の中には私と娘きり、近くの協会病院はまだ医者の出勤前だ。戦時中でタクシーなど頼めないし、誰一人自家用車もない。となりの銀行の課長の奥さんが、ともかくこれに乗ってと特大リヤカーを引っぱり出してきた。女二人でその上にふとんを丸く入れ、ともかく母をくるんだ。 
 目のないだるまのように顔中ふくれ上った母はうんうん唸るだけで体の置き場もないらしい。
 私はやにわに子供をおんぶしてリヤカーの先棒を持ち上げたが中通りの雪道は車輪が全く進まず、おとなりさんが後を押してくれたが坂がすこしすべると奥さんも雪下駄をとばして引っくり返えった。
 戦時中は、どの家にも目ぼしい青年の姿は見なかった。どんな具合で病院に知らせたかわからないけれど、入口に、夫の友人は先生が待っていてくれて、母をリヤカーから抱き上げ、
「いやーこりゃひどいぞ」
と叫び、前後の事情を話すと
「丹毒だから、二週間位は隔離に入らないと危険だ。多分洗髪の時か、僅かのきずからでもバイキンが入ったんでしょう」と教えてくれた。
 特大のリヤカーも重かったろうし雪道、電車道を越える時、おんぶするには重過ぎる娘を手足まといになると背負って走った姿はさぞやと思うが、今は全く思い出にも残っていない。
 薬のないその当時、入院室に見に行けば口と鼻と、目の玉だけ残して全部ホータイのぐるぐる巻き、チンク油を真白に塗り、それでもH先生が親切に手早い処置をして下さったから事なきを得た。と今でも感謝している。
 全快して家に帰ってもしばらく頭痛が去らない。見舞の人がくると、奥に逃げたがある日、母がお礼にH先生に握りずしを上げたい、と言った。母の料理はおいしいのだけれど、どうしたわけか仕上りの姿がいまいちうまくない。皿にのせてもスタイルがわるくどうしてもだんご類の丸め方が下手だ。何故ころころ丸いきれいになでたつるりとしたおはぎを作らないんだろうかと私はぶつぶつ言ったが、母もうまくゆかないねぇ、と首をひねる。
それでも何故か今度は生ずしに執着した。
 うんとふんぱつして、この食糧不足の今びっくりする程おいしいのを作ってみたいと言う。
 寿しやに行けばお金次第で握り寿しは食べられるけれどお腹いっぱいは無理、医局の先生、看護婦さんに存分に満足する程作って上げたいのが母の胸の内らしい。
 近くの魚や二軒に頼んで週に二度配給になる日をねらってやっと品物は集めた。お米はどんな具合でかこれも調のって母は腕まくりをした。
「握りを余り大きくしないで、」とか
「すし屋のは持てばくずれる程やわらかいよ」とか、私は心配して何度も何度も口をはさんだ。
 それでも母の希望通り菊の花模様の大皿にぎっしりと玩具の兵隊式に隙間なく生のいい生ずしが並んだ時は、少々御飯の酢がきついかなと私は感じ乍らも、いい味、いい味とうれしかった。
しかし果して皆が嬉んでくれるだろうかと不安もある。しっかりと皿が横ぶれしないように気をつけ気をつけ病院へ運び、皆から、
「珍らしい、甘い菓子やくだものよりうんとおいしい」と口いっぱい頬ばる姿はやっぱり嬉しい、にわかに得意になった。第二次大戦終結近くの話である。
 私の夢はおかしな夢で忙しい時、愉快な時はご縁が遠い。少し淋しくなると見る夢だから自分勝手だけれども、そのせいで只一人で食事をしていても何時もそばに夫がいてお互の親がいて子供たちがさわがしくてたった一人とは思われない。夢の中の皆は若くて私までも年若い女房の昔に戻る。

 いつも昔なじみの岩山さんのおばさんが去年の暮には来なかった。律儀なこの人は年末までに毎年絶対に私にセーターを一枚編んでくれる。私が派手な色好みをピンと勘でおぼえて年々その色は赤みを帯び一昨年の暮はローズ色になった。彼女も年だ、私も随分甘えてしまったけれど疲れたに違いないと思っていたら、
「遅れてすみません」とやっぱり今日セーターを持ってきた。今年は増々私好みになって早速彼女は私を裸にして新しいのを着せかけた。似合うような気が自分でもする。そして大きな紙袋を持ってきた。「それは何?」ときくと、苺ですよと答えて私は驚いた。やっぱり正月の本年初の正夢だった。何時かテレビで見た道産の信じられない大きい粒だ。
 この苺を、私は有難く頂くけれど、本当は夢に見た母と、もう一人どうしても顔の見えなかった女の人と三人で食べているんだ、と思うことにした。
 四パックもあって、私はそんなに腕をのばさなくとも、ベッドから転げることはない。今年は何かいい事があるに違いない。サクリサクリと囓り乍ら笑いをこらえている。

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