カルチャーと健康

98歳ミチおばあちゃんのエッセイ

心の中の国家とは−その1−

 夫の勤める大学病院まで徒歩十五分位、彼は毎朝私からタバコ銭二箱分を受取るとポケットにつっ込み、弁当箱を大事そうに鞄に入れて出勤するが、帰宅時間が定まらない。私がぐずぐず不平を言うと、
「えらい教授や先輩が皆、真剣に患者さんととり組んでいるのに、新米の自分だけお先に失礼と帰れるわけがない。夜の飯は先に食べてくれ」と相手にもされなかった。
 大学病院研究室医局に入局して三年目の夫は、まだぺいぺいの医者の卵で、普通ならば重い患者を診るまでには至らないのだが、昭和六・七年頃の中国東北部、南満州鉄道爆破に端を発する日支満州事変は収まる風もなく、先輩医師は続々と召集され、一日毎に若輩の荷が重くなってきた。
 ある日あわただしい空気が流れた。病院で珍らしく普通分娩による三つ子の出産が始まり、母親は小柄で、三つ児を抱えるのは大変な重荷であり食事も寝起きも自分一人の力では出来ない、半月前から出産にそなえ入院していたがいよいよその日が来た。優秀な助産婦、看護婦が揃っているから力強くもあったが、無事出産をおえ、親子とも元気だったのは運よく、すべてをまかされていた夫の気遣いは大変だった。何としても二十八歳の若い医師が大手柄ということで、男の子三人を一人づつ抱いて写真を写し保育器に移し、バンザイと叫んだよと帰宅した夫は興奮して言い、一人で乾杯をした。
 今年はいい事があるぞと彼は云い私も何だか新春早々幸せがとび込んでくる予感がして嬉しかった
 明日の身はわからないとはよく聞くが、この年、二月十日、前日からの猛吹雪の中、召集令状が届いた。急きょ十四日に出発と知らされ、仰天した私は、狂ったように
「行く処はどこ?いつ帰られるの?」と矢つぎ早にきいた。
夫は困った顔をして、私を見、
「二年、二年半位かなァ、行く先はどこか……」と黙った。
「二年−、そんなに長くどうして?」涙が出そうだった。
夫は、大丈夫、一年や二年なんてじきだよ、と元気そうな声を出したが、それは自分の胸にきかせている声ともとれた。
 横なぐりの雪は全く前方をふさいだ。私は見送りのため、赤ん坊を背おい、ねんねこを着、角巻をかぶり、毛の着いた雪下駄をはいて着物にモンペの裾をけって駅へ急いだ。
 何と、駅を埋める出発兵士の群れ。見送る家族は駅にあふれ、日の丸の旗を千切れるように振っている。
 何倆も何倆も続いた兵隊輸送列車は北にある旭川師団に背をむけ函館を目指している。南へ征くんだ、とっさにそれと気付いた。私は丸くなった背中を一層丸くして彼の姿を捜し、やっと扉口につかまっているのを見付けた。
「行く先は中支南京らしい、これ以上言えない。体に気をつけるんだ」出発兵士の人達に押されて夫の影は消えた。
 無事帰れるのだろうか。打ちひしがれて私は何もかもなくこのまま母の住む札幌の南の家へ行きたいと強く思った。

 戦争はつらい負け方をした。そして何十年かたった夏のある日、私は何気なく書棚の片方に息苦しそうに並んでいる見おぼえのある本の背表紙を見てハッとした。「われらの追憶」という実にきっちりと仕上げた、やや小型の本、忘れてはならないものだった。
 思えば昭和六十年近くに、夫の同期生が毎年開催する同期会で、松本医師が、
「我々各人がどんな苦労をして生き残って来たのか皆々全く知らない、この際話し合おう」
 と順番に話合い、その時の一同の目は燗々として輝き将にその場に今居るが如く、時には何月何日、何時何分までもくわしく記憶していたという。
「この話をこのまま埋れさせてしまうのは惜しい。私共のこの苦労を子々孫々まで伝える意味でも記録を残したい。生死の境を何度もさまよった級友の送ってくれる原稿を読み乍ら、泪を流し、家内から、又?、と冷やかされもした。各人作家でないから文筆能力はないけれども淡々と書く文は実際の体験をした人でなければ分らない貴重な文でした」と松本氏は書いている。
 それは、北はノモンハン、北支、南はビルマ、ニューギニア、と各所に及び、魚雷にやられて自分の目前で爆死した友、僅かの違いで海中に沈んだ仲間たち。
 栄養失調と過労でマラリヤを併発し、敵機を避けてジャングルの中にひそみ餓死をしている大勢の友。私は涙ながらに何度も読み返えしたはずだったのに記憶から薄れ、命からがら生きのびて還った人が今活躍しているのに再び開くこともしなかった。昭和十八年頃になると小さい島国日本が、無法にも−十六歳前後の健康な少年から、未だ在学中の学生まで根こそぎさらって、負け戦の下敷にしてしまった事を私は今になっても無念でならないと、何度あの時悔しかったか。
 夫の同期生の三分の一は戦死。六五○万とも以上とも言われる若人を戦死させて、残ったのは、老人、女子供である。少子化の時代がくるのは決っていたし、回復とはこんなにむずかしく戦後六〇年の風雪は私達に、どんな夢を持たせてくれたろう。
 この人達の意志を尊重して私は人の目にふれなくとも何か書きたいと幾度もペンを持ったが力が続かない。皆年老いるのである。何時かは、と思い、あきらめたが、それでも一条の光り、夫の七年間の出征のうち最後の数か月、旭川官舎の思い出は悲喜交ごも、愉快な日も勿論沢山あった。再び彼は南方へと目ざしたが、私にとっても銃後の最後の力と思った当時をしのびペンをとった。

(旭川二区五条にて)
 部隊長殿が夏風邪をひいて寝んでおられるからお見舞に行ってくれ、と夫が言う。それに何か手伝うことが有ったら東京育ちの奥さんが困っていらっしゃるから相談にのって上げたらとつけ加えたのだ。
 夫は前年末、六年間出征していた中支から帰還して生きて帰されたことを喜ぶまもなく三か月後、今度は旭川の部隊に四回目の召集を受け入隊した。
戦況は増々きびしく足元に火のつくように風雲急な状況ではあったけれど、何時までときまりはないが不安を抱え乍らでも家族同伴の許可もあり、入学早々の娘をつれ、旭川へ引越したのだった。
「普通だったらこんなに立派な官舎に住めないんだが、急に前任の少佐殿が移動になったから」
 そこで夫は急に声をひそめて、だが隣りには注意しろよ、部隊副官の家だからめったな事を言うと全部、部隊に筒抜けになるからなと私に釘をさした。
 やっとこ少尉のやりくり中尉と言われているやりくりの方でやってきた私宅の住む、旭川二区五条は旭川師団の官舎である。
 南の一角を占める頑丈そうな黒塀で囲まれた邸が部隊長の家、次の二軒は大尉、私共の家と副官が並び次の家は職業軍人の年配の大尉宅で少し離れて次は驚く程若い少佐殿の家が続く。奥さんは東京の有名布団店の娘さんだという。
 住居の序列も階級順で、物資の配給、何事の催し事でも、大、中、少尉官の位置で並ぶのだった。
 私共が案外簡単に上級住宅に入居出来たのは、入隊、出征の移り目が速く官舎を空けずにうめるのは引越しの素早さにあった。向いの少しばかりそまつな家の奥さんは、ちゃきちゃきした人で優しそうだった。札幌駅近くのそば屋のおかみさんだという。私も食べに行ったことがあるが何かの出合いがあって嬉しかった。
 私共の官舎の庭は小さいがととのっていたし裏の物置にキチンと年輪の見える薪が軒まで積んであった。
 夫には当番兵が付き家の囲りを整える別の兵隊さんがきて庭を掃き、不慣れな私に雑事を手伝ってくれた。
 私は数年前まで、モンペをはいて米の買出しに町内の仕事、やせた庭にビート大根を植えささやかな糖分をとっていた日々だったのに、夫の復員によってこんな豊かで平和な日があり有頂天になった。
 広い廊下につづいてだ円形の木の風呂がありゆらゆらとのぼる湯まで木の香が漂うし広々とした裏庭にもうトマトの木がのび野菜の芽も青かった。昭和十九年の晩春いわゆる、あづましい親子三人の生活だった。
 早速翌日、隣家の副官夫人が大きい木箱を抱えて入ってきて
「今日の配給はこれです。週に二回ですから皆さんと回り番で社宅に配るんですよ」
 と蓋を開けると、何と、中にはびっしりパン、砂糖、玉子、和菓子、うどん、羊かんと、ここ数年お目にかかったことのない豊かな品々が入っている。
人数分だけ置いてゆくという、勿論無料だ。只々呆然とみていると、
「また余った、私のとこでも一杯あるしもういりません、お宅に置いてゆきます」
 箱の中を空っぽにすると夫人は
「あなたのお宅を隣と決めたのは私よ。うちの子がもし病気をしたら都合いいでしょ、どうぞ宜しくね」
カラカラと笑って
「この次は、多分バターとミルクです」
と私を驚かせた。
 官舎の裏通り、広い道路のまん中に官舎専門の肉屋、魚屋が竝んでいた。
 品数はさすがに多くはなかったが、一般市中とは格段に質も上等、値も安い。
 びっくりしたことに、住む家も買物も総て階級順だから品物が入りましたの知らせて魚店に、篭をさげおっとり刀で駆けつけると、どんなに早く着いても、魚やのおかみさんが立ちはだかって、
「階級順にお竝び下さい」
 とのかけ声で列をかき分け階級順に列を作らなければならない。
 品物不足になると、必ず下っ端が切捨てとなる。子を背負って空篭のまましょんぼり帰るその下級の人の姿は、ついこの間までの自分の姿を見るようで悲しかった。

 角の塀を回した広壮な邸に住む部隊長殿の風邪見舞は面識もないし、只々雲の上の人と思っていたから気も重かったが致し方なく出かけて行った。
 病室に通されると床の間を頭にして薄い掛け布団の中に、いが栗頭の老人がひっそりとねむっている。
 枕元で奥さんが友だちと軽く明るい声で話合っていた。
「私びっくりしましたわ。こちらでは物をかき交ぜることを、かます、というんですって。私は袋のことと思っていたのよ。
 それに凍ることを、しばれると言うし、あなた、デレッキってご存じ?私、言葉をおぼえるのにひと苦労だわ」
 何がおかしいのか二人で顔を見合わせ笑っている。多分東京との言葉の違いを話しているのだろう。
 茶も出なければ、部隊長の様熊を深く案じているふうもない、格別用もなさそうだし話もない。お見舞の言葉だけで早々と帰ってきた。
 数日後、私が官舎の門あたりの雑草を取っていると、目前に馬のひづめの音がしてそれが目の前でピタリと止った。びくっとして顔をあげると部隊長だ、ともかくえらい人と聞いているので私は低く頭をさげると、
「この間はご丁寧に見舞を有難う、軍医どのにもお世話になりました、よろしく」
 部隊長の顔は、あの布団にちょこんと寝ていたちょびひげ老人とは変って小粒ながら堂々としていて威厳もあった。
 天皇陛下からお言葉を賜わったかのように私は恐懼して頭を下げその日一日嬉しく自然と頬がほころんだ。

 越して来てすぐ植えた向日葵と、唐きびは、小気味のよい程のびて塀を忽ち越えた。
 隣家の副官殿が植えたという南瓜のつるが私の家の塀の下をくぐって一夜のうちに長く丈を伸ばし黄色い花を咲かせ手まりのような実をつけた。
 旭川という土地の、驚くべき暑さを過して唐きびのひげが黒褐色になりかけ、南瓜の皮も堅くなって来た秋、予期はしていたけれど、最も恐れていた夫の移動命令が又出た。
 日々不安の絶えない戦時下ではあるが、一家三人ささやかな幸せを味わっていたのに又元の二人に戻る。
 ついこの間の母からの便りに、街の角々に若者の心をそそるような海軍兵志願や航空兵募集のポスターが貼られて、親の強い反対を押しきって、あこがれ志願するので働く少年の姿も減り淋しくなったとある。
 近所のX君も自爆した、とか涙のあとの見える遺書が届いたけれど、親はまさかわが子が?と信じていないともある。
 夫の移動となれば、家族は当然この家を出なければならない、束の間の幸せに私は昔の切なさを忘れかけていたようだ。
「隊から、この先、行くところは有りますかと聞かれたら絶対に旭川に残る、と言うんだ、実家はないと。何といってもここは安全だし食料に困らないんだから」
 すでに覚悟を決めていた夫は何度も私に念をおした。多分自分たちの行く先は苫小牧周辺、但しそこには長く居られないだろうとも言った。
 つても何もない私は札幌へ帰っても頼りにする相手はなし、増々激しさを露にしてきたこの状況では何処として安全の地はなく、せめて部隊の安否をうかがい知れるここにいた方が安心と決心した。夫の部隊はさっと移動し、その日から私共は「留守家族」と名称が変わり、ただちに小さい官舎に移る命令が出た。あわただしい引越しを了えてひと月、そこに又次の留守家族が入るので、再度の引越しを繰り返えすことになった。
 いささか私も嫌気がさしたが、まだ札幌へ帰るにはためらいがある。もう一度だけと思ってがまんした。
 今度移る家は二区五条の名物古家だった。明治末期に建てられたと伝説的に言う人もあるし、瓦屋根の木造でガラス窓も如何にも古く、板壁の羽目から中の茶色の古壁がはみ出ているようにも見える。
 前住者の使い残りか僅かばかりの艶の消えた石炭が建物の横面に野ざらしになっていた。
 何のこともないろくに陽のささない庭に、葉の落ち尽くした大木が徒長した枝を網目状に張らせてつっ立っている。
 家と木と似た者同志の古さで並んでいるのを私は薄気味わるい気持で見上げていると、裏の家との境になっているまばらな垣根越しに、
「奥さんも残留ですか、淋しいですね。私の実家は浜ですけれど、苫小牧あたりからじゃ余りに遠いし、子沢山だから残ります」
と人の好さそうな曹長の奥さんから声をかけられた。
 部隊長の奥さんは一番先に東京へ帰り、若い少佐の奥さんの姿もご主人の移動の時から姿を見ない。副官殿のいきのいい仲良しになった夫人は離れた官舎に越してしまった。
 当面のところ顔なじみは曹長の奥さんぐらいだが、何故か優しそうな表情の浜育ちだというその人に私の心も安らいだ。
 二区五条、何号舎入居、という書類に私は翌日かっきりと印をおした。

  -その2へ続く-

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