カルチャーと健康

98歳ミチおばあちゃんのエッセイ

あの日のルイさん

 朝、顔を洗ってタオルで拭くつもりで目をつぶったまま横のタオル掛けから一枚引っぱった。一枚は手にしたが又、暖かいそよ風に吹かれたかのように、立っている私のすねのあたりを何かが静かに撫でたような気がする。
 うっかりしていたら気づかなく絹布がさわったか、風だったのか、何時もならそんなことどうでもいいと、さっさと拭いてしまうのにふと足元を見ると別の一枚が足のそばに落ちてダラリとのびている。
 多分二枚重なるようになってぶら下っていたのだろうが音もなくすべりおち、すねを僅かかすった感触なのに何かが落ちたとハッキリ気付いた。不思議なその想いは私を驚かせた。恐い思い出につながっていて今尚ぐっと胸がつまる。
 今ふうに学問的にきっちり練習したわけではないが私は手話が上手だ。ここ何年ためした事もないけれどふとしたしぐさで、遊びに行こう、とか、ご飯を食べに来て、など何でも自然の手のあげさげで上手にやれるのだ。
 小学校低学年の時、私の家のとなりが昔、歯医者をしていた人で、おばァちゃんと、お姉さん、二代目歯医者の未亡人と息子。昔仙台近くの町で代々名前の通っていた人だときいたけれど、少々田舎くさい優しい一家で隣りの私をいつも連れて食事を一緒にしてくれた。不思議に思ったのは、ルイさんというお姉さんで色白の目も鼻も、子供の私がぢっと見る程きれいな人が、全く耳もきこえず、口も、ア、ア、ア、位しか云えないことだ。今、禁句になっている唖だった。
 一日中、忙しい家なのだが、ルイさんが一切合財雑用してそれが手早い。そして庭からすぐ私を手招きする。
 誰とも話が出来ないから私が相手だ。玄関の戸が開くと、何でかすぐ気づいて耳に手を上げ、ハテナ?という表情をする。私はすぐ察して出て見ると案の定、誰か玄関に立っている。
 ご飯を食べて私が箸をテーブルの下にうっかり落すとアレ?という表情で下をのぞく。
 郵便でも、新聞でも家の中のポストにストンと入ると「アー」と小さい声を出すし、皆の表情でも手真似、足真似で、ウ、ウ、とすぐ理解した。
 私の服の袖がほころびていれば縫ってくれるし、夏の日遊びすぎで顔が陽やけすると、メンソレか何か綺麗にぬって、自分で自分の目をぬぐい、エン、エンと声の出ない泣く様子をして見せる。
 こんなにピリピリ陽やけして可哀そう、という意味だ。
 そのうちに自分に貰ったごちそうを私のために何処かにかくして忘れてしまい、カビが生えてから見付けて、本当の涙を流したりした。
 ××美人と噂されて結婚し、女の子を一人生んだがやっぱり唖などは役に立たないと出されて来たというから、三十歳位だときくルイさんは私の中にわが娘を見たのではないだろうか。
 彼女と私の手話は面白い、対面してしかじかと大げさに手を振り上げて話すのではない、指で髪の毛をチョイト引っぱり上げれば女の子、バリカンでちょきんちょきんとかり上げる真似を一、二度手真似すれば、男の子。ごはんを食べ乍ら、自分のホッペタをなでなですれば、「おいしいおいしい」となる。
 味噌汁が煮立ったり、やかんの湯が湯気を上げると何の伝えがあるのかウオ!とちびライオンぐらいの声を上げて口元をとがらし台所に走った。
 本が好きらしくてよく読んでいたが、私が首をかしげて、何の本?というように聞くと、彼女は頭に山高帽をかぶり、ちょびひげつけたまねをしステッキを抱え、髪をもじゃもじゃにした美人と散歩に行くまねをした。デートの真似である。
 そんな時はまるで女優のようにうまい仕草をするのだった。
 ある時、ルイさんと私が気ぜわしく何かの話をしていた。次第に話に夢中になったら不意に彼女が私の足元を見て、下を指さした。
 手に何枚かの紙を私は持っていて、その一枚がおしゃべりの間にすーっと一枚板の間に落ちたのだった。
 勿論、音もないし、気はいもないはずなのに彼女はどうしてわかったのか。そんなことが度々あった。ずっと後うすい布が私の背からすべって畳におちた時、今度は私は、ハッキリその感触を知るようになったから不思議だった。
 音もなく降る音……。
 目、耳、口、足のどれでも役に立たない人には、別のすばらしい高度の感触という鋭いものが残されている、ということだ。
 ルイさん宅の若い姉の息子は女の中の一人だから、やわやわとした男になっては困ると北大生を一人下宿に置いている。田舎出の朴訥そうな人でよく笑った。親は広い水田を持っているのだという。ルイさんの家の一人息子を連れて夏休みはよく田舎の家に連れて行ってくれて帰りには、米や豆を土産に貰らってきた。農学部のその学生はすごく勉強する人で夜おそく迄本を読んでいるのだとルイさんは感心したし、いい友達も多いらしいとほめている。
 口のきけないルイさんにその学生は私よりもっと素早く簡単にヒョイヒョイと手を上げて話をする。ルイさんも、よしよしわかったよ、というように頷き、早く勉強しなさいと本のページをめくる真似をして背を押した。

 ある春、北大生が実家から、西洋野菜だと云ってキャベツの子みたい小さい苗を持ってきて下宿の僅かの庭に植えてくれたが、農家の出だからほんとに上手で見る見る太って丸いキャベツ位の葉の大きい球になった。
 これを畠から一個とってきて爼にのせルイさんが庖丁でサッ!と切ろうとしたら、通りがかった彼がとんで来て、これは庖丁を使わないの、手でサクリサクリとちぎってサラダにするものだということを教え、学生はぎゅっと野菜の葉っぱをねぢりちぎってマヨネーズをつけ口の中に放り込んだ。
 庖丁を捨てる真似をして葉っぱを手でちぎり口の中に放り込んで、自分の頬っぺたを撫で、いい子、いい子のように笑えば通じて、ウウー、おいしい、おいしいの意味になる。西洋野菜にマヨネーズなんてモダンな家でなければしらない時代のことだった。
 学生は好物を食べ席を立ち細い二階の階段を上り自室に行こうとした。私も丁度夕食によばれて五人で大皿を囲んでいた。その時、ふっと一陣の風が吹き部屋が突然ゆらいだように感じた。

 風のような気はいを感じ、フっと振りむけば、黒い服を着た男たちが、何時の間に玄関に入ったのか土足のまま飛び込んで殺気立った顔で私達の前に仁王立ちになってにらんだ。
 そして、どこだ!と叫んだ。
 その声で北大生が階段を上りかけていたのだが、振りむきワッ!と叫んでかけ昇り部屋の中に飛込んだ。
 黒い服のかたまりは警察官、巡査の一郡だった。
「二階だ!」と叫んで台所横の段にとび上った。
 一体何が起きたかわからないがルイさんはともかく息子同様の学生がやられる、と逆上したのか、さっき野菜を切るつもりだった爼の庖丁を握って階段を上りかけた巡査のスボンあたりに、ぶっつけた。
「バカ!」男はどなってルイさんに投げ返した。
 彼女はそれでもひるまないで、ウ、ウ、ウと叫びながらスボンの切れ目にしがみついた。
 二階から、どすんどすんと音がし、叫ぶ声がする。
 お兄ちゃんが悪者にやられる、ルイさんの鼻わきから血が流れている。私は動転した。
 この野郎!と私は逆上して台所の柄杓で奴のお尻を力一杯ぶんなぐった。ルイさんはそれでも二階に這い上った。
 私は涙は出なかったけれど大学生の兄さんが殺されると思い死んだらダメだよッと段に手をつき登った。
 せまい二階の部屋は沢山の本がけっ散らかされ、びんが割れ、荒らされてめちゃくちゃだ。
 ルイさんは血を流しながら巡査の背中にとびついてけっとばされ動かない。頭がカーッとなった私は、今振り上げようとした巡査の手にいきなり噛みついてやった。
 大学生はもう血だるまのようになぐられて組み敷かれ手をうしろに曲げられていた。
 とうとう私はヒイヒイ泣いてもう一度どこかに噛みついた。
そのうちの一人が私を部屋の隅に放りなげて頭が、がーんとなってしまった。
 それでも大学生はひきずり起されて血まみれの悪鬼のような姿でやぶれ服のまま、はだしで曳ずられて行った。
 背の小さい大学生は鬼のようにでっかい巡査の縄につながれて玄関から出てゆき、ルイさんは、ウオーウオーと、出ないはずの大声がどこかから出て泣きつづけた。
 私の顔もネバネバした血が口に入り、なまぐさい臭いがした。
 家の人は皆は裏口にかくれていて、大学生が半裸の姿になる程ぶったたかれて髪の毛もむしられた姿で外へ出るのを見ると、青ざめ気絶しそうな顔のルイさんを二階からかついできた。もうその時は全員言葉も出なくなって私もルイさんも顔と手は血だらけだった。
 私の右眉のでこぼことした起伏はその時のきずだ。ルイさん一家を今は知らない。北大生の罪名は、非合法運動であり今で言う共産党、赤い思想と言われてきびしい弾圧を受けた。学生は多分青い空を見れなかったと思う。生きて解放されたと思えない。可哀そうと私は悲しかった。

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