カルチャーと健康

98歳ミチおばあちゃんのエッセイ

夏にくる人

早く美しい十九才になりたいと思う…なあんて少女趣味の私の古い日記を盗み読みして、夫は腹をかかえて笑ったものだった。
ほんとにあのころは早く大人の仲間入りをしたかったのだが、このごろは待ってくれえーと叫びたいほど一年は早い。
この間、盆提灯のことを書いたはずなのに、もうはや毎度おなじみの提灯をださなければならない。
私は複雑な想いで汗をふきふき押入れの中から見なれた箱を引きよせる。
数日前の蒸し暑い夜明け、私はひさしぶりに電車の中で母と会った。
「あら、いつ帰ってきたの?」と私がきくと、「まちがえた道へ行って戻ったんだよ」
いつも元気で陽気な母はみなれた笑顔で私をみて大笑いする。そこへ、舅と姑、夫まででてきたので私もおどろいた。みんなあの世の人なのだ。目ざめても私の目はうるんですっきりしない。
地元に夫の同級生がにぎやかに幸せな生活をしておられるので、「先生、いつもお元気で羨ましいこと」と言うと、「でも、ときどきふと考えるんだけど、両親と姉たちみんな揃ってがやがややっていた若いころが一番幸せだったと思うよ」との答えがあった。
親に甘えたころ、働いても働いても疲れなかった日々、子供たちのために夜もろくに寝ず頑張った若い日、あれが幸せだったのだなア。
花ならば今年枯れても、またくる春に芽ぶくけれど、人生は一年草だからまたの春はない。
夢をみたせいかメランコリーになって少し考えこむ。なつかしい人たちが、つぎつぎに心をよぎるのだ。
夫が戦地に行って三年たった夏、私と娘は母だけの住む実家に暮していた。
ある日、石鹸のせいか顔にぶつぶつの赤いものが出て、かゆくてたまらない。
薬もないし、鼻の頭からおでこ、口元、めちゃめちゃに赤チンという水薬を塗っていると玄関の開く音がした。
外出中の母が帰ってきたかと飛びだすと中尉の肩章をつけて長靴をはいた凛凛しい青年将校が立っている。絵に描いたようないい男振りであった。
「永井君から頼まれてお嬢さんの靴を届けにきました。奥さんをよんで下さい」
相手は笑いをこらえて、半ば顔を横にむけたり下をむいたりして言う。
アツパッパを着た猿のような女がとびだしたので、きもをつぶしたのだ。
私は進退きわまって奥へひきかえし台所でぐるぐる回ったがどうすることもできない。
手拭いで赤チンの顔をごしごしぬぐうとそのまま出てゆき、「私が家内ですけれど」
と蚊の鳴くような声でいってうつむいた。
相手は驚いて私の顔を、じっと眺め、「どうなさったのですか?」と声をひそめてやさしくきいた。塗った赤チンと内心からのほてりで顔はますますあつくなる、穴があったら入りたいと思った。
映画でみるような美男子に、少しはいいとこを見せたかったのだ。
夫は、小柄だけどめんこいぜ、と私を宣伝してくれていたそうだが、あとで、お前は二枚舌だな、とやっつけられたにちがいない。
その先輩は、自分たちは無事戻れたけれど戦地にまだ残った連中は気の毒だ。
せめて留守家族だけでも力づけてあげようと、グランドホテルで品数のすくない洋食をごちそうしてくれた。三組の家族だったが、その先輩は私の娘の隣りに腰かけ、珍しい食べものをつぎつぎと皿にのせてくれ、自分の料理まで娘のに移してよこした。
よくもおなかにあんなに入ったものと恥ずかしかったが、長い飢餓状態のときだったので私も感激して汁一つ残さず食べさせていただいた。聞けば先輩にも娘と同じ年のお嬢さんがあり、重ね合せて考え、長い留守が可愛そうでならないということだった。
戦後、その人は札幌市立病院長になり、私どもも自分の故郷近くで大家族で平和に暮す日々になった。がある日、私の声が急に出にくくなって体がだるい、首のリンパ腺が三つも四つも腫れた。顔見知りの人にきくと、「きれいなのどですよ、心配することもないけど。
リンパ腺の腫れるのは入歯の調子のわるいときもよくあることだし」とのことでがまんしたが、やっぱり思うようでない。何ともつらいので先輩に診て貰うと、首筋をさぐり口を開けさせ、ポリープだすぐとりましょう。と簡単にことをきめてしまった。
女が数日家を離れるのは大変なこと、小さい子供もいる、二日だけ延期して貰って帰宅すると、夫と母が真っ赤な目をして、「家の中は案じることはない、安心して手術しておいで」
と妙に愁嘆場そのままの顔で言う。何やら娘もめそめそしていた。私も不気味になって問いただすと、私の帰宅前、その先輩から電話がきて「奥さんのポリープ、心配ないと思うけど検査するから、だけどお前も多少は覚悟しておけよ」と夫が言われたそうだ。
「みち子が死んでしまったら、裏に小さい家を建ててみんなで仲良く暮そう」
早手回しにすっかりそれに決めて涙をぬぐっているところに、私が元気よく飛び込んできたわけだった。ぱっくりと私の口を開けさせ先輩はいともたやすく、ポリープを取ってくれた。「こんなに大きかったよ」と見せてくれたが、私には、けし粒ほどにしかみえなかった。勿論良性だった。次は舌のつけ根の横に三つ四つ何かができた。そのときは白衣を着せられて手術場に運ばれ、少しばかり悲壮な覚悟を決めた。
広い手術場で、三、四人同時刻に手術するのだそうだ、局部麻酔だから何の音でも耳に入ってきて、周囲の手術患者が呻くのか自分のか、こんがらかってわからない。先輩は機械で人の舌を引っぱっておいてから患者の心を平静にさせようと思って、ぺらぺら話しかけるのが私もこれには返事のしようもない。十一針縫われて私にはつらい無口の数日がつづいた。病気をするといえばいつも首から上で、中耳炎、蓄膿症、そのたびに私は、げんなりした表情で、先輩の前の小椅子にちんまり腰かけ小さくなる。あやのわるいことに、先輩は耳鼻科医だった。「世の中、誰にでも悩みはあるさ、笑って暮すも一生、愚痴を言いながら生きてゆくのも一生なら、明るく過すほうが得だからね」というのが彼の持論だった。おい、働き過ぎるなよ、人生ほどほどになといつも夫に言ってくれていた先輩の声がこのごろ間遠い。お変りないでしょうねと電話をかけると驚いたことに、手おくれの肺癌であと数日の命なのだと息のつまる奥さんの声だった。
花を愛し、歌を愛し、人生をこよなく大切にした先輩はあっというまに世を去った。
私は提灯を一対しか飾らない。あかあかとともしてこちらを照してみても、去った人も残された者の心にしたって限りなく淋しい。酒にだんご、果物、気のすむまで沸前に供えて私は、夏にくる人を終日まつ。夕風がたつと、待ってましたと池辺の蛙がなく。
何かの虫の声も久々に合唱する。
くるくる回る提灯のききようと、萩の絵は互いに抱きあって、風の吹くまま短夜を過すのだ。雨の少ない今年の夏も、惜しいなあ、あと数日かと私は何度もなんども指を折ってみるのだった。

心の中の国家とは-その2-

(馬を曳く。)

「うっ!」
 突然脳天に突き刺さる激痛が去り私は片足をあげた。夫が苫小牧近くに駐屯することになり、今は当番兵の手伝いもなくなった留守宅の私が、僅かの間、腰かけるように住んだ官舎に、又もや別れを告げて三度目の官舎に移った日の朝だった。
 身回り品だけ札幌の家から持ってきたつもり、だが僅かづつふえて女一人の手での引越はむづかしそうだったが、何でもやる気になる私は誰も頼まずてっとり早く事を進めた。第一、頼もうにも見馴れた人々は全部移動して誰一人顔を知らないし自分でやるより仕方ないのだった。
 建てつけもゆるんでいるのか僅かの風でも玄関のガラスは大げさに鳴るし、たがのゆるんでいる戸の桟は水ぶきをするだけで泥水になった。
 あわてて玄関を上るとき何かの古材につっかかって太い釘をふんだ。
 薄黒く汚れた古足袋はみるみる真赤になった。あわててぬぐと足の裏が血だらけだ。とっさに手拭で足首をきつくしばったが血は止らないし、薬もどの辺にしまったか見当もつかなかった。
 血の流れるあたりを押しているうちに気分がわるくなった。と、その時乱暴に玄関が開き
「奥さん一体どうしたんですか!」
と思いがけなく、裏の官舎の曹長どのが飛込んだのだった。移動先から公用で原隊に戻って来たついでに、皆に頼まれ留守宅の安否をたずねて回っていてこの有様を見つけて仰天、医務室に走り薬品箱を抱え一切の処置を手早くしてくれた。
 古釘は抜けたし案じた血も止った。薬も充分に置いていってくれたが、夫には知らせなかったらしい。私も黙っていた。
 台所を歩けば、どの板もぎしぎしと鳴り、ポンプを上、下して水をあげさげすると最初は必らず赤黒い水が気持悪い程出た。
 風呂場をのぞくと、古い簀の子が敷いてあり、真ん中に鉄釜が据えてある、芝居でみる五右衛門風呂だ。
 吊鐘を逆さにしたような釜の風呂に入るのは恐ろしかったが、がまんが出来ない、どこかで見たような気のする仕方で釜の下に僅かの火をもやしてみた。
 釜の中に水を張ったのがすぐ沸いたが、鉄が熱くて火傷をしそうで恐ろしくて入れない、そばに立てかけてあった板を湯に浮かべて足をのせた。
一寸間違えば足をすべらせ全身火傷だ、平衡感覚を失い大声をあげた。
 やっと体を沈めると、さながら釜ゆでにされているようで気持のよいものでない。
 何というどこからどこまで古くてきたない家だろう。本当に明治時代の建築かも知れない。この一角の棟は軍人官舎の一番古いもので最後の砦と目されていた建物だと聞かされた。

 打ちのめされたように沈んだ気分で時々外へ出る。師団前から電車にのって旭川市内に伺うと、旭橋が見え、民間の人達が住む市街地のにおいがした。
 何時もならそのあたりから空気が変るのだったがやっぱり暖かくぬくぬくとした師団官舎からくるとびっくりする程空気の変って来たのがわかった。店の商品の数はへっていたし人影もまばら、街のあちこちに、東京の歌舞伎役者や、旅興行をつづけている水谷八重子一座の赤いのぼりが年の幕の風に吹かれて力なくさむざむと泳いでいるのだった。

 庭に只一本つっ立っている古木の落葉が、厚い層になっていて踏みつけると、ずぶずぶと土の中にめり込んでゆく。
 来年も又ここで暮すならばやたら葉っぱを茂らす日蔭になるこの樹は邪魔だ、切り倒して薪にしよう、しばらく思案したが、決心して、裏の曹長の留守宅から大鋸を借りてきて何十年か何百年かの古木の幹に歯を当てた。しかし見よう見真似が大変だった。鋸はペカペカと乾いている表皮をなでるようにきずをつけるだけで、くねくねと波うつばかりで前後に動かない。力が余って自分がひっくり返えった。
 かなり力を入れたが初日は横一筋の線をつけただけ。汗をしたたらせ乍ら見上げると、老いたりといえども土着の木、こわっぱ何をすると見下ろす姿である。
 鋸は、馬鹿力を出したって駄目なのであって、巾広いこの鉄板を上手にいなしてそろりと遠くへ送り、いっきに力をこめて手前に引くのだ、すうっ、がっ!とやりとりしているうちに巾広い鋸は僅かづつ樹の肌にくい込んでゆく。二日も三日も頭の中で考え工夫して私は尚も武者ぶりついた。
 十日ほどでやっと一ミリの白いすじがついた。この大木が倒れたら一体何本の薪になるであろう。板ぶきの朽ちかけた体全体が斜めになっている物置がある。それにギッシリ切目のあざやかな丸々とした薪がうず高く積まれる日がいつ来るか、私の頭にはそれ以外考える余裕はない。
「奥さん、奥さん、この寒い中で毎日何をしていますの?」
 まばらな垣根のすき間から例の曹長の奥さんが丸い目をしてのぞき、不気味そうに声をかけた。
薪にですよ、と答えると、
「まあ!そんな大きな木、どうして倒せるものですか。第一、倒しても生木は燃えないんです。この寒空に風邪でもひいたらどうします、およしなさいよ」
 薪にならない?私はそれを聞いて絶望した。粒粒辛苦、二十糎近く食い込んだというのにまだまだ幹は太い、やり場のない何とはなしの不平と不満を抱いだのだったが、その日でその作業はやめた。
 雪がどっと降りだし気が付けば、正月にひと月しかないのだった。

 正月には夫に五日間の休暇がでるという。このぼろ家に帰ってきて来年は又、どこへ連れて行かれるか分らない彼に、何とかして好物の餅のつきたてを食べさせたいと思うし、好きな酒も僅かづつの配給を台所の隅にかくした。
 計画をたてたがる私だが、餅米はあるけれど、臼も杆もない。それさえあれば私だって搗けるだろう。と気づいて顔馴染みの官舎専門の魚屋にきいてみると、ある、あると承知してくれた。
「だけんど奥さん何で臼を運ぶ?」
と魚屋が私に訊いた、すかさず威勢のいいおかみさんが
「とうさん、××さんとこの馬を借りてあげなよ」
と奥から声がかかり、おやじさんは呼応して
「んだ、んだ、あれはロバみたいに優しい馬っこだもんな」
と頷いた。臼を借りる農家は近くだという、話は具体化して今度は私のほうがひるみ、札幌の母に応援を頼んだ。

 運よく夜来の大雪が晴れて山々は白く空は青い。借りに行くには好都合だ。私は重装備をして勇躍家を出た。
 魚屋の店さきに品のない小馬がそりを曳きづって止っている。
 おやじさんが出てきて手綱を私ににぎらせ
「右に曲る時は右に綱を引く、左に行く時は左へひく、走る時は両方の綱を平行にぐんと引くんだからね」
と、せっかちに私に教える、私は急に不安になって、「小父さんも一緒に行ってくれるんでないの?そのつもりで来たのに」
「んだって俺にゃ店があるもの、馬によっちゃ、人を見るって言うけど、これはまことにおとなしい、ロバコと同じだ。今教えた通りにやれば、何でもねぇ、馬鹿でも行くさね」
 おやじさんは、私のもんぺのお尻をどっこいしょと押し上げて馬にのせてくれた。
 おそるおそるひく、ひくと綱を引っぱってみた。小馬はぽかんぽかんとひづめを鳴らして一寸前進した。
「そうだ、そうだ、それでいいんだ、その調子で行け」
 おやじさんの拍手に送られて私は、小馬の首についている綱をしっかり握って恐るおそる歩き出した。馬は正直にぱこぱこ進み始め、ふりむいてみると、魚やはもう店に入ってしまって姿がなかった。
 馬も私も黙ったまま小半町もゆく。うしろで子供たちの声がし、ふとふり向けば何でもない喧嘩だ。また正面に向き直すと、馬がきちんと直角に右に向きを変えている、あ、ふり向いたとき右手の手綱を引いたのか、あわてて左をぐいと引いたら今度は小馬がくるりと左へ向きを変えて反対側をみて立っている。またもあわてて両手で水平に綱を引くと、今度は左に曲ったままの道を歩き始めた。これでは逆の道だ、また右にひくと馬は又ぐるりと半径分回って完全に右を向き私の手綱の通り右曲りしたままひたすらまっすぐ歩く。
 目的の家は魚屋から一本道をゆき、僅か右方に曲ればいいものを、私が子供の声にふとふり向いた僅かの手綱の狂いのために、農道を、小路を雪の中を只前進するばかり、私はうかつにもバックの手法をきいてこなかったのだ。
 背を叩いたり、撫でたり、綱を引っぱってみたり、ゆるめてみたり、その度に小馬は跳びはね、走り、止り、私はするすべもなくなって黙々と綱を握ったまま小馬のゆくまま、歩いて行った。
 どこかで馬から降りようと思ったが、馬をつなぐ場所もない。
 どこへ行くのか私も馬もわからず一本の小道を進むばかりだ。からりと晴れた青空も段々消えさり、暮れなずむ冬の日はもう僅か、肌をさすように体も冷えてきた。
はるかかなたに点々と灯のともりはじめた農家に尋ねたいと思ったが手を離したすきに逃げられるかも知れず、年の暮れだというのに何という人の影も少ないのだろう。
 やがてはるかにほっかぶりの小父さんが歩いてくるのが見えた。
「小父さーん」
叫ぶと、その人は手ぬぐいの脇から耳を出して、俺けェ?と云った。
わけを話し地図を見せると、
「全く反対だべさ、なんだってこんなところまで。いやはや驚いたな」
と私の顔を見て、俺、街まで行くだけど、その臼、借りてやっからあんたそりに乗んなさい、と手綱をにぎってくれた。
 遠くの農家の灯にと背を向け、小馬はくるりと向きを変え、何事もなかったように鼻から白い息を吐いて走った。小父さんは、
「将校の奥さんが、どすてこんなはんかくさいことすんの」
と、ほっかぶりの中から大きい声で言った。
 明日の命もわからないからね、私の搗いた餅を食べさせたいの、私はそれを思っていたけれど黙っていた。
 臼、きね、蒸器、そばで見るとみんな大きい、私一人ではしょせん無理な事だった。二人の農家の小父さんはころころ臼を回してそれにのせ、私をまん中の僅かのすきに座らせると、どんどん走り始めた。
 古家に着いて、玄関の土間に臼をすえ道具を置くとその小父さんは馬を返してきて上げる、と外へ出た。
 旭川に住む農家のおやじさんの心の中にも軍都旭川の誇りと出征兵士の家族を助けるという心がしがみついている、と私は目をしばかせ乍ら頭を下げ感謝した。
 長かった一日、ごめんね、私は小馬の背を撫でて詫びたが、相手はヒンとも言わず去って行った。
 正月まであと三日、夫は今夜おそく帰ってくる。

 明日は朝早く私が玄関の中で餅をつく予定だ。きねを振り上げ札幌の母が手こねというのをしてくれる約束だ。

(遠い寒月)

 私は、札幌へ帰るための引越支度をしていた。目も眩しむばかりの激しい暑さと、昼間から台所のポンプが凍り、朝目ざめれば枕元のコップの水が氷柱のようにふくれているほどの寒さを一年間のうちに経験した私は、主の去った今、再び共にこの家に住むことはないであろうと思い、部隊最古の明治建造木造瓦ぶきの官舎を早々と引き上げる準備を始めた。
 大鋸で切り傷をつけた庭の大木も、わずか二十糎程食込んだだけで放ってしまったが十二月末の豪雪にやられて、隣の空地にひっくり返えったが、もう薪はいらないし、僅かの畠の陽当りを心配する必要もない。
 ひからびて皮がむけ、巨像のような姿でだらしなく雪にへばりついた古木は哀れな姿であったが、ここを一刻も早く去りたい私には何の未練もなかった。
 
 ある日、苫小牧近くの遠浅という地に駐屯している夫から、買ったり貰ったりしたものが色々あるので来てほしいと知らせがあり、くわしい所在地もわからなかったが、飛んで行くと、すでに二区五条の顔見知りの軍人の奥さんがかなり集まっている。皆、知らせを受けて駆けつけた人達であった。
 一別以来、こんなに明るい顔を皆で会わせたのは始めて、満面笑を浮べた夫たちは、新巻、バター、小豆、留守家族の者達には、縁遠くなっている品々を次から次へと出して来て渡してくれた。
 この地はチーズ類の生産地だという。
 雪の殆どないこの地は旭川とは別天地のようであり、夫の宿泊していた宿の人々は親切な一家で、私が着くなり、むろから、芋、大根をずっしり出して味噌汁を作り、体が暖まるから、どんどん食べて大きな碗に山盛に出してくれた。
 勿論、この部隊が近々移動するための家族面会見とは夢にも知らず、私は家に待つ娘に食べさせたくて餅も、チョコレートも何粒かの飴玉も残さずつめ込んだ大荷物を背負って駅へ向かった。
 最後にまだ持てると宿の小母さんからの二本の大鮭がとどめをさして、私はそこでにっちもさっちもゆかなくなった。
 夫は隊に戻らねばならず、替って見送ってくれた兵隊さんが、私を荷物ごとうしろから列車の中へ押し上げてくれたが、余りの重荷と、長い魚が、ぶらぶらまつわりついて体がままならない。
 その時、列車の中にいた別の兵隊さんが、体が中ぶらりんになっている私を見兼ねて、よいしょと中から腕をひっぱり上げてくれた。
 旭川駅に着くと、午後十一時十分。はるかかなたに赤ランプをともした終電車が早く、早くというように、チンチンベルを鳴らしている。私は恥も外聞もなく片手で荷の紐をおさえ、片手を高々と振り上げ
「待ってぇー」と叫び荷を曳ずり命からがら駆けつけたが、電車の段にのぼれない。
 雪ですべり、段に手はつくが体がふっと浮いてくれないのだ。
 背の風呂敷は余りに重くはね上がろうとしても動かない、万策盡きて一尾づつ手にした鮭を電車の床に放り込み、重い荷が右に左に傾いてつぶされかけたその上に、ぐったり這い上った。
 車掌はおくれにおくれて腹がたったのか、私の足が電車に上るか上らないうちに音高くドアを閉じかけ、私は必死に荷にしがみついた。
 立ち上って自分の姿を見れば泥棒の逃げる姿でもありものすごい風体であったが、官舎通りの停留所で降されると私は雪の中に座り込み、のけぞるように気を失いかけた。
 一月二十日の寒月は空に冷たく冴えて雲もなにも見えない。寒さと空腹と……。
 駅のラジオは今冬一番の寒さ、旭川は零下二十三度といっていた。
 娘の喜ぶであろうキャラメルとチョコレートをかじかむ両手にぶらさげ、着物に結んでいる帯をほどいてその先に鮭をくくってひきづった。
 背中には大風呂敷にぎっしりと豆類、かんづめ、バター類があり、両腰のひもに鮭二尾がぶら下っている。
 やっと振むいてみれば、はるかかなたの帯の先に鮭がもう一尾、ひきづられて凍てつく道の上をころがっているのである。
 十歩あるいては白い息を吐き、五歩あるいては苦しい胸を叩いて凍りそうなマツゲをしばたたいた。
 もう歩けない、私は幾度か立止り、遂に重い雪下駄を捨てた。
 冷たいことなど全く感じない、私は色足袋のまま一歩一歩と我家を目ざし、ついに建てつけのわるい玄関にたどりついた。
 中には留守番に来た老母に抱かれて娘が待っているはずだ。最後の力で私はガラス戸をどんどん叩き、くずれるように荷物の中に埋まった。

 幸せがあれば苦もある。体全体氷像のようになって帰って一週間あと、夫から連絡あり×日某地に出発するのですぐ来るように、とのことで宿である例の雑貨屋さんに駆けつけたが、部隊は明朝発つので最早面会はできないという。
「鹿児島あたりという噂ですよ」
と、小母さんは言い、そこから船に乗るんでしょうかね、と憂い顔でつけ加えた。
 翌朝未明、まんじりともせずにいた私に小母さんが、今、出発らしいですよ早く、早くと告げにきた。
 店のカーテンを僅か開けて外を覗くと、姿、形は定かでないが軍靴の正確な響きだけが時を刻むかのように近づいてくる。
 店の前通りを、おびただしい数の兵隊が通り過ぎてゆくけはいがわかった。
 顔も見えず声もなく規則正しい足音だけだった。駅迄でも見送りたかったが許される事でない。真夜中、皆の寝静まるのを計って軍隊全部出て行くのである。
 カーテンのすきから、馬に乗ってる部長の、かっ、かっ、という蹄の音と、長く続く兵隊の規則正しい軍靴の音がいつまでも心に残った。

 昭和二十年二月、戦は何時終るとも知れず、暗たんたる想いであの夜の凍てつく寒さとを重ね合わせ、しみじみと、旭川二区五条の日を想うのであった。

心の中の国家とは−その1−

 夫の勤める大学病院まで徒歩十五分位、彼は毎朝私からタバコ銭二箱分を受取るとポケットにつっ込み、弁当箱を大事そうに鞄に入れて出勤するが、帰宅時間が定まらない。私がぐずぐず不平を言うと、
「えらい教授や先輩が皆、真剣に患者さんととり組んでいるのに、新米の自分だけお先に失礼と帰れるわけがない。夜の飯は先に食べてくれ」と相手にもされなかった。
 大学病院研究室医局に入局して三年目の夫は、まだぺいぺいの医者の卵で、普通ならば重い患者を診るまでには至らないのだが、昭和六・七年頃の中国東北部、南満州鉄道爆破に端を発する日支満州事変は収まる風もなく、先輩医師は続々と召集され、一日毎に若輩の荷が重くなってきた。
 ある日あわただしい空気が流れた。病院で珍らしく普通分娩による三つ子の出産が始まり、母親は小柄で、三つ児を抱えるのは大変な重荷であり食事も寝起きも自分一人の力では出来ない、半月前から出産にそなえ入院していたがいよいよその日が来た。優秀な助産婦、看護婦が揃っているから力強くもあったが、無事出産をおえ、親子とも元気だったのは運よく、すべてをまかされていた夫の気遣いは大変だった。何としても二十八歳の若い医師が大手柄ということで、男の子三人を一人づつ抱いて写真を写し保育器に移し、バンザイと叫んだよと帰宅した夫は興奮して言い、一人で乾杯をした。
 今年はいい事があるぞと彼は云い私も何だか新春早々幸せがとび込んでくる予感がして嬉しかった
 明日の身はわからないとはよく聞くが、この年、二月十日、前日からの猛吹雪の中、召集令状が届いた。急きょ十四日に出発と知らされ、仰天した私は、狂ったように
「行く処はどこ?いつ帰られるの?」と矢つぎ早にきいた。
夫は困った顔をして、私を見、
「二年、二年半位かなァ、行く先はどこか……」と黙った。
「二年−、そんなに長くどうして?」涙が出そうだった。
夫は、大丈夫、一年や二年なんてじきだよ、と元気そうな声を出したが、それは自分の胸にきかせている声ともとれた。
 横なぐりの雪は全く前方をふさいだ。私は見送りのため、赤ん坊を背おい、ねんねこを着、角巻をかぶり、毛の着いた雪下駄をはいて着物にモンペの裾をけって駅へ急いだ。
 何と、駅を埋める出発兵士の群れ。見送る家族は駅にあふれ、日の丸の旗を千切れるように振っている。
 何倆も何倆も続いた兵隊輸送列車は北にある旭川師団に背をむけ函館を目指している。南へ征くんだ、とっさにそれと気付いた。私は丸くなった背中を一層丸くして彼の姿を捜し、やっと扉口につかまっているのを見付けた。
「行く先は中支南京らしい、これ以上言えない。体に気をつけるんだ」出発兵士の人達に押されて夫の影は消えた。
 無事帰れるのだろうか。打ちひしがれて私は何もかもなくこのまま母の住む札幌の南の家へ行きたいと強く思った。

 戦争はつらい負け方をした。そして何十年かたった夏のある日、私は何気なく書棚の片方に息苦しそうに並んでいる見おぼえのある本の背表紙を見てハッとした。「われらの追憶」という実にきっちりと仕上げた、やや小型の本、忘れてはならないものだった。
 思えば昭和六十年近くに、夫の同期生が毎年開催する同期会で、松本医師が、
「我々各人がどんな苦労をして生き残って来たのか皆々全く知らない、この際話し合おう」
 と順番に話合い、その時の一同の目は燗々として輝き将にその場に今居るが如く、時には何月何日、何時何分までもくわしく記憶していたという。
「この話をこのまま埋れさせてしまうのは惜しい。私共のこの苦労を子々孫々まで伝える意味でも記録を残したい。生死の境を何度もさまよった級友の送ってくれる原稿を読み乍ら、泪を流し、家内から、又?、と冷やかされもした。各人作家でないから文筆能力はないけれども淡々と書く文は実際の体験をした人でなければ分らない貴重な文でした」と松本氏は書いている。
 それは、北はノモンハン、北支、南はビルマ、ニューギニア、と各所に及び、魚雷にやられて自分の目前で爆死した友、僅かの違いで海中に沈んだ仲間たち。
 栄養失調と過労でマラリヤを併発し、敵機を避けてジャングルの中にひそみ餓死をしている大勢の友。私は涙ながらに何度も読み返えしたはずだったのに記憶から薄れ、命からがら生きのびて還った人が今活躍しているのに再び開くこともしなかった。昭和十八年頃になると小さい島国日本が、無法にも−十六歳前後の健康な少年から、未だ在学中の学生まで根こそぎさらって、負け戦の下敷にしてしまった事を私は今になっても無念でならないと、何度あの時悔しかったか。
 夫の同期生の三分の一は戦死。六五○万とも以上とも言われる若人を戦死させて、残ったのは、老人、女子供である。少子化の時代がくるのは決っていたし、回復とはこんなにむずかしく戦後六〇年の風雪は私達に、どんな夢を持たせてくれたろう。
 この人達の意志を尊重して私は人の目にふれなくとも何か書きたいと幾度もペンを持ったが力が続かない。皆年老いるのである。何時かは、と思い、あきらめたが、それでも一条の光り、夫の七年間の出征のうち最後の数か月、旭川官舎の思い出は悲喜交ごも、愉快な日も勿論沢山あった。再び彼は南方へと目ざしたが、私にとっても銃後の最後の力と思った当時をしのびペンをとった。

(旭川二区五条にて)
 部隊長殿が夏風邪をひいて寝んでおられるからお見舞に行ってくれ、と夫が言う。それに何か手伝うことが有ったら東京育ちの奥さんが困っていらっしゃるから相談にのって上げたらとつけ加えたのだ。
 夫は前年末、六年間出征していた中支から帰還して生きて帰されたことを喜ぶまもなく三か月後、今度は旭川の部隊に四回目の召集を受け入隊した。
戦況は増々きびしく足元に火のつくように風雲急な状況ではあったけれど、何時までときまりはないが不安を抱え乍らでも家族同伴の許可もあり、入学早々の娘をつれ、旭川へ引越したのだった。
「普通だったらこんなに立派な官舎に住めないんだが、急に前任の少佐殿が移動になったから」
 そこで夫は急に声をひそめて、だが隣りには注意しろよ、部隊副官の家だからめったな事を言うと全部、部隊に筒抜けになるからなと私に釘をさした。
 やっとこ少尉のやりくり中尉と言われているやりくりの方でやってきた私宅の住む、旭川二区五条は旭川師団の官舎である。
 南の一角を占める頑丈そうな黒塀で囲まれた邸が部隊長の家、次の二軒は大尉、私共の家と副官が並び次の家は職業軍人の年配の大尉宅で少し離れて次は驚く程若い少佐殿の家が続く。奥さんは東京の有名布団店の娘さんだという。
 住居の序列も階級順で、物資の配給、何事の催し事でも、大、中、少尉官の位置で並ぶのだった。
 私共が案外簡単に上級住宅に入居出来たのは、入隊、出征の移り目が速く官舎を空けずにうめるのは引越しの素早さにあった。向いの少しばかりそまつな家の奥さんは、ちゃきちゃきした人で優しそうだった。札幌駅近くのそば屋のおかみさんだという。私も食べに行ったことがあるが何かの出合いがあって嬉しかった。
 私共の官舎の庭は小さいがととのっていたし裏の物置にキチンと年輪の見える薪が軒まで積んであった。
 夫には当番兵が付き家の囲りを整える別の兵隊さんがきて庭を掃き、不慣れな私に雑事を手伝ってくれた。
 私は数年前まで、モンペをはいて米の買出しに町内の仕事、やせた庭にビート大根を植えささやかな糖分をとっていた日々だったのに、夫の復員によってこんな豊かで平和な日があり有頂天になった。
 広い廊下につづいてだ円形の木の風呂がありゆらゆらとのぼる湯まで木の香が漂うし広々とした裏庭にもうトマトの木がのび野菜の芽も青かった。昭和十九年の晩春いわゆる、あづましい親子三人の生活だった。
 早速翌日、隣家の副官夫人が大きい木箱を抱えて入ってきて
「今日の配給はこれです。週に二回ですから皆さんと回り番で社宅に配るんですよ」
 と蓋を開けると、何と、中にはびっしりパン、砂糖、玉子、和菓子、うどん、羊かんと、ここ数年お目にかかったことのない豊かな品々が入っている。
人数分だけ置いてゆくという、勿論無料だ。只々呆然とみていると、
「また余った、私のとこでも一杯あるしもういりません、お宅に置いてゆきます」
 箱の中を空っぽにすると夫人は
「あなたのお宅を隣と決めたのは私よ。うちの子がもし病気をしたら都合いいでしょ、どうぞ宜しくね」
カラカラと笑って
「この次は、多分バターとミルクです」
と私を驚かせた。
 官舎の裏通り、広い道路のまん中に官舎専門の肉屋、魚屋が竝んでいた。
 品数はさすがに多くはなかったが、一般市中とは格段に質も上等、値も安い。
 びっくりしたことに、住む家も買物も総て階級順だから品物が入りましたの知らせて魚店に、篭をさげおっとり刀で駆けつけると、どんなに早く着いても、魚やのおかみさんが立ちはだかって、
「階級順にお竝び下さい」
 とのかけ声で列をかき分け階級順に列を作らなければならない。
 品物不足になると、必ず下っ端が切捨てとなる。子を背負って空篭のまましょんぼり帰るその下級の人の姿は、ついこの間までの自分の姿を見るようで悲しかった。

 角の塀を回した広壮な邸に住む部隊長殿の風邪見舞は面識もないし、只々雲の上の人と思っていたから気も重かったが致し方なく出かけて行った。
 病室に通されると床の間を頭にして薄い掛け布団の中に、いが栗頭の老人がひっそりとねむっている。
 枕元で奥さんが友だちと軽く明るい声で話合っていた。
「私びっくりしましたわ。こちらでは物をかき交ぜることを、かます、というんですって。私は袋のことと思っていたのよ。
 それに凍ることを、しばれると言うし、あなた、デレッキってご存じ?私、言葉をおぼえるのにひと苦労だわ」
 何がおかしいのか二人で顔を見合わせ笑っている。多分東京との言葉の違いを話しているのだろう。
 茶も出なければ、部隊長の様熊を深く案じているふうもない、格別用もなさそうだし話もない。お見舞の言葉だけで早々と帰ってきた。
 数日後、私が官舎の門あたりの雑草を取っていると、目前に馬のひづめの音がしてそれが目の前でピタリと止った。びくっとして顔をあげると部隊長だ、ともかくえらい人と聞いているので私は低く頭をさげると、
「この間はご丁寧に見舞を有難う、軍医どのにもお世話になりました、よろしく」
 部隊長の顔は、あの布団にちょこんと寝ていたちょびひげ老人とは変って小粒ながら堂々としていて威厳もあった。
 天皇陛下からお言葉を賜わったかのように私は恐懼して頭を下げその日一日嬉しく自然と頬がほころんだ。

 越して来てすぐ植えた向日葵と、唐きびは、小気味のよい程のびて塀を忽ち越えた。
 隣家の副官殿が植えたという南瓜のつるが私の家の塀の下をくぐって一夜のうちに長く丈を伸ばし黄色い花を咲かせ手まりのような実をつけた。
 旭川という土地の、驚くべき暑さを過して唐きびのひげが黒褐色になりかけ、南瓜の皮も堅くなって来た秋、予期はしていたけれど、最も恐れていた夫の移動命令が又出た。
 日々不安の絶えない戦時下ではあるが、一家三人ささやかな幸せを味わっていたのに又元の二人に戻る。
 ついこの間の母からの便りに、街の角々に若者の心をそそるような海軍兵志願や航空兵募集のポスターが貼られて、親の強い反対を押しきって、あこがれ志願するので働く少年の姿も減り淋しくなったとある。
 近所のX君も自爆した、とか涙のあとの見える遺書が届いたけれど、親はまさかわが子が?と信じていないともある。
 夫の移動となれば、家族は当然この家を出なければならない、束の間の幸せに私は昔の切なさを忘れかけていたようだ。
「隊から、この先、行くところは有りますかと聞かれたら絶対に旭川に残る、と言うんだ、実家はないと。何といってもここは安全だし食料に困らないんだから」
 すでに覚悟を決めていた夫は何度も私に念をおした。多分自分たちの行く先は苫小牧周辺、但しそこには長く居られないだろうとも言った。
 つても何もない私は札幌へ帰っても頼りにする相手はなし、増々激しさを露にしてきたこの状況では何処として安全の地はなく、せめて部隊の安否をうかがい知れるここにいた方が安心と決心した。夫の部隊はさっと移動し、その日から私共は「留守家族」と名称が変わり、ただちに小さい官舎に移る命令が出た。あわただしい引越しを了えてひと月、そこに又次の留守家族が入るので、再度の引越しを繰り返えすことになった。
 いささか私も嫌気がさしたが、まだ札幌へ帰るにはためらいがある。もう一度だけと思ってがまんした。
 今度移る家は二区五条の名物古家だった。明治末期に建てられたと伝説的に言う人もあるし、瓦屋根の木造でガラス窓も如何にも古く、板壁の羽目から中の茶色の古壁がはみ出ているようにも見える。
 前住者の使い残りか僅かばかりの艶の消えた石炭が建物の横面に野ざらしになっていた。
 何のこともないろくに陽のささない庭に、葉の落ち尽くした大木が徒長した枝を網目状に張らせてつっ立っている。
 家と木と似た者同志の古さで並んでいるのを私は薄気味わるい気持で見上げていると、裏の家との境になっているまばらな垣根越しに、
「奥さんも残留ですか、淋しいですね。私の実家は浜ですけれど、苫小牧あたりからじゃ余りに遠いし、子沢山だから残ります」
と人の好さそうな曹長の奥さんから声をかけられた。
 部隊長の奥さんは一番先に東京へ帰り、若い少佐の奥さんの姿もご主人の移動の時から姿を見ない。副官殿のいきのいい仲良しになった夫人は離れた官舎に越してしまった。
 当面のところ顔なじみは曹長の奥さんぐらいだが、何故か優しそうな表情の浜育ちだというその人に私の心も安らいだ。
 二区五条、何号舎入居、という書類に私は翌日かっきりと印をおした。

  -その2へ続く-

茫茫山河-その1-

偶然同じ日に、仙台の和子から母宛に小包一個、私宛に、厚子から部厚い封書一通が届いた。
和子は母のふる里仙台の田舎に住んでいる、母の長兄の孫娘だけれど、まだ母も私も一度も会ったことはない。
二年前、“ちよの叔母さん”という書き出しで突然初めての便りをくれたのだ。七十歳の母は何年も前に長兄が亡くなるまでは細細とつづいていた年賀状も近ごろはとだえていたから、「私は十八歳になり学校を卒業してから町の農協に勤めています。昔じっちゃ、ばっちゃからいろいろの話をきいていましたので遠い北海道の叔母さんに一度お便りがしたかったのです」
とのハガキに驚いてしまって、すぐその場で小机に向い、故郷のなまり丸出しの長い長い返事を書いたのだった。それからの春秋には、手作りらしい果物や野菜が送られてくるし、中に写真も入っていた。裏に続柄と名前も書いてあるので、母は、あ、これはあのときの赤ん坊だった子と声を張り上げ、また晩年の長兄の歯のないしわしわの口元の老人顔に仰天した。和子の顔は祖母のふくよかさによく似ているとえらく感激のていだった。母が生れたとき祖父が喜んで、桧材をたっぷり使った広い家を建ててくれたが人よしの父親が一代ですってしまい、今は遠縁の者がそこに住んでいるということだ。
和子からの送りものはいつも新聞紙でボコボコに包んで上を油紙で厳重にくるみ、またその上を紐できっちりと巻くから角は丸く、しばったところだけ不ざまにへこんで堅い。指を入れるにはまわりが弾みすぎてほどくのにひどく難儀する。表面がでこぼこしているのは栗かな、と私は裁ち鋏を出すと母はそれをはねのけて丸くて太い指先きで堅い結び目を必死にほどこうとしている。口元を左へ右へ曲げて頑張るが頑丈な結び目はいつかなゆるまない。
私が物も言わずに鋏を紐の下にぐさりと入れると、母は、一本だけ切りなさい、お前はばんばんとやってしまうからと心配そうな声をだす。三、四個所切れば紐は手を拡げたように離れるのだけれど、和子からくる荷物のときだけは母は異常に見れるほど丁寧に優しくした。
案のじょうほどけた紐を短かいのまでくるくる巻きにして、包んであった油紙に丁寧につつみこむ。
その中にくるんであった白木綿の袋の口をほどくと、中からころげるように小粒の栗がとびだした。
もうひとつの小袋からは細ひもに数珠つなぎに連なったこれまたお互いにひっつきそうな小粒の干柿がずるずるとひきづられて出てくる。如何にも貧しいやせた土地のなりものに見えて私はふっと哀しくなった。店頭で見る栗は丹波栗のように粒ぞろいの光った大きいものだし、干柿だって白い粉のふく、ふかふかしたのが木箱にうまそうに並べられているのを見慣れているから私は余り食慾もそそられないけれど、なわにぴったり張りついている干柿をむしり取って口に入れると、ぎっしりと種がつまっていてそれが口の中を逃げまわり、ポイポイと口から放り出しているうちに実はなくなっていた。母は柿の実のるころ、祖母と二人で皮をむき、何列もすだれのように干して甘さのでたころ食べ始める、となつかしんでいとおしむように実を二つに割って種をだす。何たって桃、栗、柿、はここが日本一だよねえ、といいながら口の中に入れてもごもごとしだした。
「正月用にも取ってあるからいるんだったら栗をまた送りますって」母はうきうきした声で言ったが、「こんなちっぽけな栗じゃむいたら食べるとこがないもの、めんどうくさくて大変。いらないわ」
うんざりした顔で答えると、母はむっとした表情でとっとと栗を袋にしまい始めた。何もかもふるさとの香りがするのに、こともなげに栗は小さい、柿は種だらけとけなされては面白くなかったらしい。
それなら一人で食べるよと思ったのか片づけてしまった。それでも和子の便りに、叔母さんお達者で、一度どうしてもお会いしたいとあった文が嬉しかったのか思い直したふうで、私の手にある手紙をのぞきこみ、ところで厚ちゃんからの便りは何?とたずねた。
あ、私は思いついてそのぶ厚い封の口を切った。厚子たち一家が、夫の亀雄の実家近くに越して行ってからめったに便りがない。店が忙しい、子供が大変と二、三度元気な知らせがあって私も安心したのか自分勝手もあり返事も余りしていなかった。
今日の便りには、胸がはりさけるほどたくさん話があるので是非近いうち会いたいのですと、書いてある。冷静で頭のいい彼女にしては、感情的で哀しくせっぱづまったような文だった。「あっちに引越しても駄目なのかねえ」厚子の母親と私の母は昔から気が合っていて、厚子たちが仙台に引上げると決ると、母は長いこと沈んでいたし厚子の母親も、私だけ引越すのを中止しようかしらと言ったぐらいだ。それでも行ってしまったのは、娘の夫の亀雄が遠縁からきたちょっと気に入らない婿養子だったからだ。
「亀雄さんが来たから店も繁昌していたのに、何で引越しまでするのかわからないよ」と母はなげいた。仙台のはずれで肉問屋をしている亀雄の実家からの応援で、厚子の父親の死後始めた肉店は、大車輪で働く亀雄の力で日に日に景気がいい、私はとき折りのぞいてきては母に告げるのだ。「亀雄さんて商売人の息子だけあってなかなかうまいものねえ、あれだけ肉も売れていたし、惣菜部のほうではコロッケも、サラダ、カツレツの山なんか夕方までにきれいに空っぽだったわ。何てったって兄さんから直接肉がくるんだものすごかったわねえ。こっちはめったに口に入らないっていうのに」厚子も母親も、金はいくらあっても使う暇がない、と嘆いていたものだ。
「昔からことわざにもあったように婿さんって大変だからねえ、田舎で呑気に暮した人だもの」
母は、中に入って見ればいろいろあろうよと言った。「亀雄さんの顔、それにしてもひどかったわ。どこがどうなんだか全部ちぐはぐで間のびしたような。厚ちゃんが美人だから調子が合わなかったのだろうか、長い間お互いがまんしていたことがあったと思うわ」私と厚子の家は根っこのほうで僅かつながっているていどの親戚だけれど、お互一人娘同じ年だったから仲が良くて甘えっ子の厚子は妹、がっちり型の私はいつも姉とみられていた。ぽってり色白で中高の、品のいい外人顔で厚子は通りすがりの人でもふりむくほどで、学校の受持教師から熱烈な求婚をされたのだというが、彼女の父親の反対でつぶされてしまった。いろいろそんな話が多くなるので、父親は一人娘だから絶対養子をと、亀雄を望んだのだ。彼の写真を見せられた厚子は学校へも行けないほど驚いて、家の中でも沈んで口をきかなくなった。私はそんな事情を知らないから、彼女をさそって相手のことをさりげなく聞いてみるがさっぱり反応がなく、そんな話なぞ知らないわと平然と顔色も変えない。そのうちに、学校を卒業したらすぐ結婚と決まったことを母から知らされ、同じ年の私はやっぱり内心穏やかではいられない、美人の厚子があっさり決めたのだから彼女はとぼけて見せるが案外内心は喜んでいるのでないか。気のりしない顔の厚子をさそって、いつも歩く川べりを歩きながら私は平静をよそおって、「どんなお婿さん?」ときりだした。突然厚子の色白の顔が朱をそそいだように赤くなると、きっと私をにらみつけ、「あなたは私をからかっているの、絶対死んだってあんなお化けのとこに嫁(い)かないわ、馬鹿にしないでねッ!」
聞いたこともない激しい口調でぶつけるように叫ぶと川べりの護岸のコンクリートの上にかけあがり、今にも落ちるのでないかと私が息をのむ思いで見ているのに、飛ぶような速さで帰っていった。
結婚式の前日から私は厚子の家に行った。彼女は半病人のように青い顔をして、泣きつづけたらしい目は結婚式の当日になっても腫れたままで顔中むくんで見えた。それにしても私が何よりも驚いたのは亀雄の顔だ。巨大な体で、頭の毛がひどく薄く極端に両眉が離れている上に目が何とも小さいのだ。
体もいかつくて象のようにも見えるし、いやだなァと私もついうつむいてしまった。
しかし式は何ごともないように穏やかにすんだ。その後、ひやひやしながら私も数日息をひそめるようにしていたが、さわぎは起きない。二人の評判もご近所中いいそうだよ、と母が知らせてくれて私は信じられないけれどほっとした。
数ヵ月が過ぎ厚子が私の家にきた。公園で開催されるラクビーの試合を二人で観にきたという。彼は一足先きに行っていて、持ってきた重箱のひとつをお宅へもと置いて行った。彼女の抱えている風呂敷は赤いちりめんの花柄で若くて美しい新妻にぴったりで私もちよっと羨しかったし、夫婦っておかしなものだと思った。この間電話をかけたら、「ちょっと待ってね、うちの人と変るから。私今あげものをしていて手が離せないの」と言うではないか。私は厚子と久し振り話したいのだが彼女はもう私を相手にしてくれない。それにしても野太い亀雄の声をきくと、私はあの巾広い顔が気味わるく思い出されて、そそくさと電話を切ってしまったのだ。生活は順調満帆と思われていたし、肉屋をすれば思惑通り当るし、一体何があって飛立つように急に引き上げたのか察しかねたのだけれど、ただひとつ、私は母にも教えていないけれど、心臓の凍るおもいをしたことがあった。
冬に近い夕暮れ、私は用事を足しているうちに不意に厚子の肉店に行ってみたくなった。今晩一晩とめて貰おうかと思いつくと、そのままその商店街へと急いだ。短い日は暮れて回りははや真暗い。殆どの店は閉じている。大通りの角を曲って店につくと外は暗いのに戸は簡単に開いた。
不思議に思ったけれど、外の寒さに思わず身をすくめて家の中に入ってゆくと、奥の一段高くなった居間のほうから男女のいりまじった怒声がきこえてくる。
泥棒?私はとっさに店の戸をせいいっぱいに開くと、足音をしのばせ店の調理室の横にうづくまって耳をすませた。
「何時までつっ立っている!早く出てゆけ」「何つべこべ言っているんだ、大きいこと言っているとただですまないぞッ」亀雄の太いどなり声だ。「お前の顔をみるのもいやだ、口もききたくない、文句があるならあとできちんと聞く」厚子の母親のおさえるような声がきこえた。「ババァも悪いんだ、俺の考えをいつきいてくれる!」「余りさわぐと警察を呼ぶよッ!」「やかましい」異常な静けさを感じて私は思わず奥を覗いた。すぐ私の目の前の机の上から亀雄が何かをわしづかみにして厚子にぶつけた。そばにいた母親は厚子をかばってとっさに体をずらせた。厚子にぶつけたつもりが母親の額に当ってにぶい音をたてたと思うと、青インクが顔中流れ首すじを通って着物にたれた。額の中央から血がふきでて鬼の形相になった。「やったね、厚子を殺す気か」「うるさい、黙れ」突然前にとび出してきた厚子も体を青く染めながら、「殺してやる」と叫び、一直線に調理場にとび込んできた。
私は勝手を知っている包丁のしまい場にコートをかけて、すでにかくしてあったから、思わず厚子の肩を力一杯叩きつけた。
私は夢中で居間へ飛び込んで、手を振りあげ母親にとびつこうとしている亀雄のシャツの襟をつかんで開けてあった戸の外へつきだした。足もとの油断があったのかつんのめるようにして亀雄は外へ出てしまった。私は体がこきざみに震えていたが、案外気持は落着いていて、くわしくはわからないが大事件と察し素早く戸を閉じ錠をかけると居間の灯りだけにした。
厚子と母親は言葉もなく亡者のように立棘んでいる。私が不意にそこに現われていることにも不審を抱いていない全くの放心状態なのだ。赤ん坊も二階に寝かされているのか音もなく気味わるいほどの静かさだ。「あの人、殺してやる……」厚子は、すけるほどの青い顔で唇をふるわせうわごとのように同じことをときどき言う。片袖はちぎれ肩の肌が丸く出ていた。ひとつ間違えば人殺しでも起きたかも知れない状態だったのにともかく危機は脱した。私は次第に気がゆるみ涙をぬぐいながらとび散っているインクを邪険にぬぐい始めた。
母親はぼんやりと私の手許を眺めている。ときどきしゃっくり上げるような声をあげて、もう駄目なんだよずーっと前から、と血とインクで顔中をくしゃくしゃにして泣きだした。厚子や母親をこんな目に合わせる亀雄の狂気じみたさっきの顔が目に浮ぶ。あんな奴死んじまえ、私もいらだって本気でそう思った。「これで終ったよ、あれはもうこの家に入られない」
少しずつ冷静さを取り戻した母親は、この世のものとも思えない化物のような顔できっぱりと言った。
しかしあの原因は何だったのだろう。それを思い出すと今でも身震いがでるのだけれど、興奮しきった親娘からは何も教えて貰う気になれなかった。だから今もって一切の事情はわからない。
どんな結着をつけたのか知らないが、数ヵ月後、亀雄の内地の実家近くに厚子夫婦、母親と子供二人揃って引上げることになったのだから余り香んばしい結末でなかったにしろ、何かのかたはついたのだろうと私は思った。父親が修羅場を見ずに死んだことは救いだったけれど、母親は引き上げて三年目に亡くなった。病名も知らされたけれど私はやりきれない、最後のようすはどうであったか、今の生活はどんなであろうか、いとぐちができてみれば矢もたてもなく会いたくなった。
胸がさけるほど話があるというのは気になるが、貧乏話ならともかく、もうあのときのようなせっぱづまった、切った張ったの暗くて重い話なら金輪際ごめんだと私は思う。
「和子は山形の人と結婚するんだって。農協の人だそうだよ」母やぽつんと言い、切角あっちとの糸口がついたのに、あの子が山形へ行ってしまったら……と小声で呟いた。「ねえお母さん鹿又(カノマタ)へ行ってみない?二人で。あ、そうだ、タケオも連れて」
私は突然言った。カノマタとは昔から母の寝物語りに何度もきかされた仙台のはずれの母のふるさとの名だ。何故かその名は私にやさしく響いた。母から聞く桃の実の話は、日本一うまくて、日本一大きい美しい花が咲きそのいい香りは山中に漂うという。七十歳の母と、三十五歳の私、私の息子の五歳のタケオ、年のバランスも悪くない。厚子の便りも誘引となった。
眉毛の薄い亀雄も其の後どうなっているのか。決して肉をカッターで切らず、一枚一枚あざやかな手つきで切る亀雄のそばで厚子が、たっぷりと肉を入れたコロッケをあげ白い大皿に盛り、店のガラス棚にのせているか、そんなこう図も想像されるが全く亀雄のことはわからない。
だが……、しかし、ふと私は、妙なことに思いつく。亀雄はほんとうにそんなに悪い男なんだろうかということだ。むくんだ顔立ちこそ、厚子とは月とすっぽんだけれど、いつのころか、私は彼のどこかにひそんでいる優しさと、男の臭いがまじった明るさに気づいていたし、何かうまく言えないけれど大きな魅力もあったように思うのは不思議な心理だ。
激しい夕立ちの日だった。平和な世の中になったけれど、まだ品数が不足で高級肉など私たちの手許に入らない、ないないづくしのある日、玄関のベルが激しく鳴った。外出途中でにわか雨にあいずぶぬれになった亀雄が行き場所から近い私の家に飛込んできた。
「珍しいこと。たまに夕飯を食べていって」と、湯豆腐と魚の味噌煮をとっさに出すと、
「久し振りの魚でうまかったねえ、でも肉なんかいくらでも買えるでしょ」ときく。高いし、めったにいい肉に当らないしまあまあのとこを食べてますよと答えると、「でもときどきふんぱつしているから」と母は照れた笑い方をした。「僕の実家は肉屋だから、やっぱり魚のほうが珍らしくてうまかったなァ、今日の味噌煮はほんとにうまいねえ」亀雄は細い目を糸のようにしてうれしそうな顔をした。雨はすでに上っていた。亀雄はくつろいだ自分の家で茶を飲んでいるようなのんびりした顔をしている。なるほど、巨人だけれど、離ればなれの両目の位置が少しおかしく、どこやらのどかな象にもにて穏やかにも見え、鼻も口もまあまあだが総体がたっぷりしているからおかしいのだと思いついた。
「可哀そうだねえ、俺のとこは毎日肉だ。厚子は今日のは少しかたい、明日はもっとやわらかいのを、なんて文句ばっかり言っている。そうだこれから定期的に届けるからうんと食べてよ」
自分の家に持って帰るつもりだったらしい紙づつみの上等の牛肉のかたまりを台所のまな板の上にごろりとのせた。……まあこんなにいい肉を……と母が目を丸るくすると、あ、ここの家には肉切り包丁がないんだ。どれ僕がおお切りだけしてゆこうか、と包丁を見て、「ひゃーでくの棒みたいだ、これじゃ芋も切れない」と家庭用の小さい砥石を小板のようにあつかって、きゅきゅとすべらし始めた。
「あーあ、畳の上で飯を喰うのはいいものだね、何年振りだろう。僕の田舎は毎日こうだったから」
肉のかたまりは貰ったし、包丁は気味わるいほど光らせて貰ったし、礼のつもりでビールを出すとたちまち、金時山の猿のようになって、「小母さんこの顔じゃ車にのれない、ちょっと三十分横にならせて。時間になったら絶対に起してね」と念を入れて母に頼むと、忽ち雷のようないびきをかき始めた。
次の週に、肉と黒い色の石鹸を持ってきてくれた。「石鹸は厚子の愛用品だって。使ってみてとことづけ。ぬかが材料だそうだよ」と、ぽいと手渡すと帰って行った。石鹸より肉のほうがうんとうれしい、私は早速礼の電話をかけると、「あの人、少しやさしくするとすぐ甘えるの。うるさかったらそう言ってね」
厚子はのんびりのどかな声で返事した。

その2へ続く…

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